2010 年 1 月 のアーカイブ

博物館の教育的側面とは

2010 年 1 月 26 日 火曜日

文化庁長官

みなさま、はじめまして。文化庁長官の神木白夫(かみきはくお)です。
私はおともだち内閣のどんくさい政治家どもとは違って、権威ある国家公務員試験を受けまして極めて公正な階段を駆け上がって参りましたエリートですので幾分崇高な議論ができるものかと思っております。

さて、博物館の教育的側面とは何でしょうか。
これが分からないと言って、真剣に悩んでおられる方ばかりだと存じますので、今日はわたくしが到達した考えを述べさせていただきます。
ただしはじめに言っておきますが、私は何も全く新しい考えを提示するわけではありません。既に言われ続けていることが互いにどのように関連し合っているかを発見したにすぎません。

博物館の四大機能というものがございます。
資料収集、資料保管、調査研究、教育普及の4つです。
博物館学というのは、その性質として考古学のような既存の学問と似ているところがありますが、決定的にその他の学問と異なるところは教育的側面を持つということです。この教育機能とは一般的に博物館における「展示」活動と一対一対応しているものと考えられるかと思います。

ですが、私のような浮世離れした人間からすると、なぜ博物館において教育的機能というものが存在するのか分かりません。
というのも、私たちは義務教育によってきちんと勉強させられているのに、わざわざ博物館に教育的機能を持たせて、しかも国費を使ってどでかい展示会場を建設したりしています。一体これにはどういう意図があるのでしょうか。
また、浅学者にとっては博物館を訪れても今一つ学んだ気持ちになることもありません。事実、博物館の展示方法で主流になりつつあるのは、展示解説文は極力短くして、学芸員側による一方的な説明的要素を排除しようという動きがあるのだといいます。
それならばなおさら博物館の教育的側面とは何だろうか、という疑問がわいてくるのです。

私はこのように考えました。
教育的機能を本当に満たしたいのならば、資料を全て画像や音声、動画などのデジタルデータにおこして、文献や学術的見解などもひっくるめてウェブ上にアップロードすればいいではないか。そして検索機能、情報整理機能などをつけれたら、学習において最も重要な資料の共有が可能になる。これをもって教育的機能と言えばそれで済む。それに伴って毎年多くの博物館で赤字をぶっこいている展示を縮小できれば一番いいではないか。。。

しかしどうやら博物館の教育的機能は、そういうものではないようです。
それはつまり、博物館の教育において最も重要なものが「現物」だからです。
現物があくまでも大事なのです。これが美術館とは決定的に異なる部分だと私は思っています。
なぜレプリカではだめなのか。
レプリカがあってはいけないということではないと思います。ですが、レプリカの場合は、レプリカそれ自体よりもどのようにして現物が複製されたのかということの方が重要な意味があります。つまりここでも、現物の重要性が見え隠れしているのです。
なぜレプリカ<現物なのか。
これは私の考えですが、博物館の教育とはつまり歴史を学ぶということに尽きるからです。

歴史と言うと我々は、既にストーリーが存在してそれを時間軸に沿って勉強するもののように感じるかもしれません。
しかし、歴史の本質は”人間が生きた”歴史なのです。過去、とある哲学者や文学者、科学者が何かを考え、記録し、または創作しなかったらこの世界の歴史は相当に貧弱なものとなっていたでしょう。しかし実際は生きて、もがいて、ひっかき傷を残していったものが大勢いたのです。そして、その遺産に共鳴を受け、それを保存し、整理し、普及させようと努力した者もいるのです。
これをひっくるめて、私は”人間が生きた”歴史とよびました。
要するに博物館は歴史そのものを直接扱う機関なのです。歴史の傍観者ではなく、歴史の中の一員として。
だから現物が大事なのです。
歴史という学問が研究対象とするのは、現物以外にありえません。私たちに歴史を教えてくれるのは、レプリカではなく、結局のところ現物でしかないわけです。
ですから私がさっき述べたように、資料をアーカイブしてウェブにのっけるという教育の方法は、単なる傍観者が見る歴史でしかありません。そうではなくて、来館者も歴史の体感者になってもらうことが博物館の役割なのだと私は考えています。

もしかしたら、博物館の現場の人たちはそんなことよりも動員数を増やす方が大事だと考えておられるかもしれません。現実的な問題としてそういう切実なこともありますのでなかなか難しいとは思いますが、それでも歴史の体験感覚を追求することなく、大衆迎合的なコンテンツを充実させているばかりでは、こんな時代です、博物館が必要なら民間にやらせればいいと私は思います。

年賀状を出さない企業方針に喝

2010 年 1 月 3 日 日曜日

総務大臣

新年あけましておめでとうございます。
新年明けて早々、暗黒ブログおともだち内閣へようこそ。総務大臣の歌川つめたろうです。

お正月と言えば、年賀状ですよね。最近正月には年賀状を出すという文化がだんだんなくなっているのだそうです。
メールにとってかわったりとかしてね。
聞いたところによると、最近は企業がもう、年賀状を社内の人間にかくってゆうのを禁止してたりもするのだとか。

気持ちはすごく分かります。めんどくさくてしようがないですね、年賀状ってのは。知り合いとか多い人なんかは地獄かもしれませんよね。
私は、年賀状をメールで済ませるとか、そもそも禁止にするとか、そういう風潮に理解があるつもりでいます。
けれどもけれども、一言言っておかねばならんだろうということがあるので、お時間の方よろしければ最後までご覧になってください。

まずは年賀状メールについて。
私は基本的に年賀状を紙かデジタルデータかで優劣つける意味はあまりないと思っているんですけど、メーリングリストとかで一斉送信されるメールがありますよね。あれのうれしくなさが半端じゃないんですよねぇ。うれしくなさすぎるんです・・・。し~ん。
紙でもらった年賀状は超適当なものでもうれしいんですよ。なんで一斉送信メールだとだめかっていうと、相手の頭の中に自分がいることを想像できないからです。リストの中にいる全員にあてた内容であれば、その人ならではの感謝の気持ちとか表せるはずもないですよね。
ですから、満足してるのかしてないのか知らないけれどもこういうことで済ませてる人に私が代表して言いますね。
一斉送信で年賀状メール送っても、うれしくないですよ。何のための年賀状かもう一度考えましょうね。

次は、企業が年賀状を禁止するっていう風潮に関してです。
本当に気持ちは分かります。忙しいですからね。せっかくの休みがなくなるかもしれません。
むしろ、社内の人間に年賀状をくそまじめに出したりする人はやるべきことが分かってない人なのかもしれません。
そういう大変さはわかるから、私が言いたいのは「年賀状を出せ」ということではありません。
年賀状出すのが大変だという人が自らの態度を肯定できるような仕組みを作ってしまうことが問題です。
意味分かりませんね。
「わずらわしいから年賀状出さない」という人は、年賀状を出さなかった、返さなかった罪悪感を抱かなくてもいいという仕組みが問題なのです。
お世話になった人に年賀状を出さないということは、ある意味失礼なことでしょう。その無礼さを開き直れるような口実を作ってるわけですね、企業が禁止するということは。それがだめだって言ってるんです。

意味ない文化を消してしまえば、企業としては生産性が上がるでしょう。
でも、なんか・・・、なんかつまんないですね。