2009 年 12 月 のアーカイブ

超現実的、人類滅亡後の動物世界への回想「アフターマン」

2009 年 12 月 13 日 日曜日

文部科学大臣

すごい本を読んだので取り急ぎ書評を。
おともだち内閣文部科学大臣の本田スパニエルです。

読書の秋ですね。というわけで、私は最近小飼弾が選ぶ最強の100冊+1を読んでゆくというキャンペーンをやっているわけですが、すごいのがあったので報告です。

アフターマン。人類が滅亡したあとの地球で、生物界がどう変化するかということを描いたフィクションとノンフィクションの狭間を駆け巡る科学本です。
これが・・・、おもしろいんだ。
子供に読ませたい本暫定ナンバーワン。や、むしろ幼少期の「私」に読ませてやりたい。
著者(ドゥーガル・ディクソン氏)は、人類滅亡から5000万年後の学者かなにか(宇宙人?)の視点になりきっています。さも、長い間地球を観察していたかのように、冷静な文体で、それっぽく書いているのです。

進化ってのは、結局のところ遺伝子の突然変異が原因で起こると言われています。突然変異は完全なランダムです。
だとすれば、ある一定の確率で変化した突然変異種が無数に生まれることになります。けれど自然界は弱肉強食ですので、他の種よりも有利な形質を獲得した突然変異種が生き残っていくわけです。
こうして生物はその環境に適応した最適解を見つけるために、試行錯誤してゆくのです。

たとえば、寒冷地に住む動物は体が大きいものが多く、逆に砂漠などの高温の地では小さいものが多いらしい。
これは、寒冷地ではできるだけ体温を逃がさないような仕組みが要求されますので、体積に対する表面積の割合が少なくなければいけないためです。
このようにして、似た環境に住む動物たちに一定の法則を見出すことができます。

ですが、私が思うのは、その環境に対する普遍的な最適解というものは存在しないだろうということです。
現存する生物たちは、既に絶滅してしまった種よりも、現在のその環境への適応力が高かったということは間違いないでしょう。けれど、それらの種はベターであったけれども、ベストではない。ベストな形質なんてものはもともとあるはずもないのです。
たとえば、さっきの例で言うと、体の大きい動物が寒冷地でベストな形質ではありません。体が大きいという物理的な制約が逆に弱点になっていることもあります。そのため、ある突然変異種が体が小さくても体温を維持できる仕組みを手に入れた場合、その環境では彼らがベターになるのです。

こうして生まれた新種もまた、ベストではありません。
あくまで、「その瞬間」、「その環境」への適応力が比較的高いとしか言えません。なぜなら、環境というのは常に変化するからです。
この本では、5000万年後の地球の大陸図も、プレートテクトニクスから予想しているのですが、地形的な構造だけが問題になるわけでもありません。本書でもおもしろい例が紹介されていました。

熱帯ジャングル環境の話ですが、ネコ科の動物がですね、手を180°自由にまわせるようになって、しかも物をつかめるようになると言うんですね。
こういったことが、革命なんです。
ジャングルでは本来、木の上はサルの独壇場でした。サルよりも樹上で自由に動ける敵はいないのです。
ですが、肉食のネコが物をつかめるとなると当然狙いは木の上ということになりえます。そうすればサルたちの夜もねられない生活が始まります。このネコからの攻撃をうまく回避できなかったサルたちは今までの棲み家を追われることになります。
著者はこうして一気に進化が起こると言います。

要するに、生物圏はいっろんな要素が複雑怪奇にからみ合って成り立っているのです。ですから、ほんのちょっとの変化が大きな変革を後にもたらす、バタフライ効果のようなものが実際にあるんですね。
ですから、著者が予想した未来は外れているでしょう。そもそも、人間が滅亡するという前提ですし。
著者は、そんなことは百も承知だと思います。また、この本のおもしろさはそういう所にあるのでもない。
本書を読めば分かりますが、吹き出しそうな動物が次から次と出てきます。パラシュリュウなんかは典型です。
けれども私は、ディクソン氏の頭にはもっともっと奇抜な発想があったのだろうと思います。だけど、「これじゃあ生存競争に負けるようなぁ」と冷静に考えて、しぶしぶとりやめた、そんな姿が想像されるのです。

本書には、人類がなぜ滅亡したか、人類滅亡をどう阻止できるか、みたいなことには一切言及されていません。進化のメカニズムに関する説明は少しされていますが、それでも一般の書に比べれば不完全なものです。
アフターマンを一言で要約するなら、「科学的見解に基づいたディクソンの惜しげもない空想の産物」です。

私は天才に生まれたかった。
天賦の才を持って、思い描く理想像が明確にあるのです。
それは決して世の中をよくするとか、豊かにするとかいうことではない。
究極に無意味なことを、あらゆる学問を総動員させて、それっぽく開発、分析したい。天才的リソースの全てを無意味なことに費やしたい。
つまり私は「アフターマン」を生み出すような男に生まれたかったのです。

寿司論其の三 序論「希少性と自我同一性」

2009 年 12 月 11 日 金曜日

食物担当大臣

どうもこんにちは。食物担当大臣の唐獅子マスヨです。
ただいま食べ物担当庁が総力を結集する「寿司論」講座を複数回に渡って展開中でございます。

寿司論其の一 序論「抽象度と汎用性」
寿司論其の二 序論「抽象度と汎用性2」

本日もまた前回の引き続き、食べ物の好き度を客観的にはじきだすためのアルゴリズム研究です。
今回は、「稀少性」と自我同一性がテーマとなります。
前回までのおさらいをさらっとやっておくと、食べ物の好き度は抽象度と汎用性に対して以下のような性質を持つということを述べました。

汎用性と抽象度

もしこれらの食べ物の主観的おいしさが同値であった場合、この図を見ると、具体的かつ汎用的なホットケーキミックスが一番好きなのだろうという推論がなりたちます。
この図から分かることは、「炭火焼肉が好き」と単に言っても、大したアピールにならないということです。なぜなら、炭火焼肉が現れる料理は炭火焼肉か、もしくは炭火焼肉コースくらいしかありえません(汎用性が低い)。一方ホットケーキミックスを使った食べ物はいろいろありますので、それだけ多くの食べ物が守備範囲内にあるということですから。

この点に着目して、議論は次の段階に進みます。
「柿ピー」と「ウェイパー(調味料)」の例で考えてみましょう。この2商品を汎用性で比較すると、柿ピーは柿ピーでしかありませんね。汎用性は著しく低いと言えるでしょう。対してウェイパーは何にでも使えておいしい調味料ですので、汎用性はトップクラスと言えるかもしれません。
勘の鋭い読者は察したかも分かりませんが、汎用性とはそもそもその食べ物が他の食べ物の中にどのくらいの割合で使われるか、その出現確率を示すものでした。ですが、私たちの普段の生活の中でそれぞれの食べ物に同じ確率で出会うわけではありません。
被験者が食べ物に出会う確率、つまり希少性を考えることが必要だということです。
ウェイパーはたしかに多くの料理から被リンクを受け取ることができるでしょう。しかし、ウェイパーはただでさえ高価ですし、私たちがウェイパーを使った料理を食べることは少ないのです。その点、柿ピーはもはや国民的おやつ、つまみの一つであり、私たちの口に、目にふれる確率は格段に高いのです。

汎用性と希少性

ですから、あくまでヒト目線で見るとするなら、ウェイパーや牡蠣は幅広くあみをはっているにも関わらず、それ自体の希少性が相対的に高いため現実に生活していてもあみにかからないのです。
これらの思考実験」から分かることは、希少性が高ければ高いほど、あみにひっかかる確率が格段に落ちるため、好き度は下がるということです。
どうしても現代のこどもたちは、キャビアやフォアグラの方が好き度が高いと思いがちです。
しかし、真実はそうではない。滅多に食べられないものをおいしいと感じるのはあたりまえなのです。そうではなくて、いつでも食べられるような、たとえば食パンにバターと砂糖を塗って、二年以上もおいしいおいしいと言って食べ続けた私の方が好き度が高いと言えるのです。
人間は飽きる生き物だということを肝に命じておく必要があります。最後まで飽きなかった食べ物が、あなたの好きな食べ物なのです!
これがフンボルト元事務総長が提唱した「希少性の相反原理」です。

さて、希少性を言及したならば、それは市場価値をぬきにして語れるものではないということが真っ先に分かることでしょう。実はこの市場価値なるものが、さらに次の段階、「自我同一性」に関する議論を巻き起こします。
詳しくはまた次回。

寿司論其の二 序論「抽象度と汎用性2」

2009 年 12 月 6 日 日曜日

食物担当大臣

はいどうもこんにちは。おともだち内閣食物担当大臣の唐獅子マスヨでございます。

寿司論其の一 序論「抽象度と汎用性」

や、前回から寿司論をひけらかしておるのですけど、今回もその続きです。まだ序論ですよ。
前回の宿題は覚えていますか?
その食べ物の汎用性が高ければ、好き度は高いのか低いのか。という問題でしたね。これは専門家の間でも議論が分かれると言いました。

ハムカツサンド大学のロールケーキ研究家、イッテルビウム博士は汎用性が高ければ、好き度は低くなると言いました。

イッテルビウム博士
イッテルビウム博士

食べ物の汎用性と抽象度というのは、性質が似通っています。私が担当しているクラスでは、多くの学生がこの違いを明確に区別できていません。これはたしかに混乱を与えかねないクラスタリングなのです。
どういうことかと言うと、「ファミレスのエビグラタン」→「グラタン」→「ホワイトソース」→「ミルク」のように汎用性が高くなると、同時に抽象的になるという現象が確かに起こるのです。

ですから、このような間違いを犯さないよう、次のように覚えておいてください。
抽象度は、その食べ物を一意に識別できるかどうかをあらわす指標
汎用性は、その食べ物がいかに汎用的に用いられるかをあらわす指標
こう考えれば、たとえばビタミンCの例もよく分かります。一見ビタミンCは抽象的だと言う人がいるかもしれませんが、確実に一つの意味を紡ぐことができるので、これは具体性が著しく高いということが分かると思います。

さて、私があえてこの間違い例を引き合いに出したのは、ここに重要なヒントが隠されているからです。
食べ物の汎用性と好き度は比例するか、という論争は長い間行われてきましたが、その答えの鍵がここにあります。
結論から言うと汎用性が高ければ好き度は低く、汎用性が低ければ好き度は高くなります。

抽象度が高ければ好き度は低いという結論は既に出ました。
そしてさらに、汎用性が高ければ抽象度が高くなるという現象が起こることをさっき紹介しました。
つまり、抽象度と汎用性は、好き度に対する性質が似ているのです。
つまり、汎用性が高ければ好き度は低くなるのです。

引用:「ロールケーキの渦に呑まれた天才科学者たち」(ヨハン・イッテルビウム著 / ケンタウロス出版)

イッテルビウム博士はこのように述べておられます。
しかし、賢明な読者のみなさんの中には気付いた方もおられるかもしれません、彼の主張には穴がぽっかりとあいています。
そう、彼は自ら、ビタミンCの例をあげて言っているではありませんか!抽象度と汎用性は、私たちの直感と異なる場合があるということを!ビタミンCは、汎用性はmaximumですが抽象度はminimumなのです。
ですので汎用性と抽象度の好き度に対する性質が同じという考え方は非常に危険です。

私の考えでは、汎用性が高ければ、好き度も高くなります。
たとえば、好きな食べ物「アミノ酸」と言ったやつがいるとします。アミノ酸は汎用性は高く(アミノ酸を含む食べ物は無数にある)、抽象度は低い(ただ一つに識別される)です。(汎用的かつ具体的)
これと比較して、好きな食べ物「ハーゲンダッツのラムレーズン」があるとします。ハーゲンダッツのラムレーズンは汎用性が低く(ほかの食べ物には決して現れない)、抽象度も低い(ただ一つに識別される)です。(限定的かつ具体的)
この2つはどちらも抽象度が低いですので、好き度について汎用性を中心に比較することができます。

私の直感では、ハーゲンダッツが総力をあげて、高級な食材をとりよせてつくっているのだから、「ハーゲンダッツのラムレーズン」がうまいのはあたりまえだ、と思います。対して、アミノ酸みたいな自然でどこにでもあるものに「おいしさ」を感じるということはよっぽど好きなのだろうと思えるのです。
この私の直感は、本質をついていました。
これはGoogleの創業者、ブリンとペイジが開発したページランクの考え方で説明することができます。

寿司のケース
まずこれは前回のおさらいですが、抽象度が高いと好き度が低いということの根拠を示しています。好きな食べ物が「全食べ物」では、好きも嫌いもありませんよね。こういう場合を考えて、抽象度が高いものは正規化する必要があります。その食べ物が内包する食べ物の母体数で主観的おいしさを除算する必要があるのです。
ですから、抽象度の高さは、好き度を下げるという役割しか果たしません。

茄子のケース
それでは汎用性が高いパターンを考えてみましょう。茄子の場合は、汎用的になるので、焼きナス・なす漬などの茄子を親にして生まれる子どもたちからの被リンクを受け取ることができます。茄子が好き、と言ってしまえば茄子を含む全ての食べ物からのサポートを受け取ることができる仕組みになっているのです。
ですから、汎用性が高ければ好き度も上がるのです。

これで十分すぎるほど、イッテルビウム派のあほぶりが分かったと思います。
彼の著作は信頼にあたりませんので、今すぐ焼却処分するのがよいでしょう。BOOK・OFFに売ったりしてはいけませんよ。
それを買った誰かがまた間違った知識を植えつけられることになりますからね。

それでは今回はこのへんで。次回も序論が続きます。「希少性と自我同一性」についてです。お楽しみに。

寿司論其の一 序論「抽象度と汎用性」

2009 年 12 月 1 日 火曜日

食物担当大臣

はいこんにちは。おともだち内閣食物担当大臣の唐獅子マスヨでございます。

今日は、ワタクシ唐獅子マスヨの根幹を担う思想「寿司論」を展開いたします。ついに・・・、このときがきた!
ちなみに言っておくと、ワタクシもちろん寿司を握ったことはないですし、高級料亭でいただいたこともないですし、庶民にも手が届くスーパーに売っているお寿司で大概満足できる人間です。ですが、ワタクシなりに寿司にかける情熱というものは人一倍強いものをもっております。

さて、ここ数年、いや数十年好きな食べ物ランキングダントツ1位をひた走っている寿司、でございますが、そもそも好きな食べ物とはどのようにして決まるのでしょうか。実は私ども食物庁が好きな食べ物ランキング算出アルゴリズムの研究をしています。素人が何も考えずに好きな食べ物に優劣をつけようとすると、不公平さを内包してしまう危険性があるのです。
まずは下図をご覧ください。

  1. 寿司
  2. 天ぷら
  3. うな重
  4. カレー
  5. キャラメルコーン
  6. おせち
  7. 牡蠣フライ
  8. サンドイッチ
  9. 唐獅子マスヨ好きな食べ物ランキング:2009/12/02現在

不公平さとは、何が言いたいのかと言うと、食べ物の好き具合を「おせち」と「キャラメルコーン」で比較するのはおかしいということです。これは、「野菜」と「コーンポタージュ」を比較しているようなものです。もっと言えば、「和食」と「ナポリタン」が同じ土俵でたたかっているのです。
これに関して言えば、ワタクシ小さいころ「青じその天ぷら」が好きな食べ物ランキング最上位だったころがありました。これを例にとって、歴史をまたいで暫定1位の「寿司」と比べてみると、もし仮に当時の「青じその天ぷら」の好き度と現在の「寿司」の好き度が拮抗するのであれば、「青じその天ぷら」の方がポイントが高いはずだと言うことができます。
なぜなら、ふつうの青じそはそこまで好きではないのに天ぷらにした途端食べ物界の頂点に君臨する、または、えびやその他の天ぷらにはそこまで興味を示さないのに青じそに関しては別格のうまさがある、といったところにヒトの好みへの秘密があると考えられるからです。青じそでかつ、天ぷらでなくてはいけないという確固たる主張。つまり、好きな食べ物を考えるときには、その食べ物の抽象度が問題となってくるのです。
昔ワタクシの友人に、「好きな食べ物・うまいもの」とプロフィールに書いているやつがおりました。こうなると元も子もないですね。「好きな食べ物・好きなもの」だってありえる。ですから、「うまいもの」と「メロンパンのかたい部分」というこたえ方では、後者の方がより熱意が大きいだろう、つまり具体的な方がより好きだろうという推論が成り立つわけです。言いかえれば、一義的に解釈できる名称の方が好き度が強いということです。
ですから、そう言った意味で寿司はあまりに抽象度が高すぎます。巻き寿司はどうなのか、ちらし寿司は、いなり寿司でもいいのか、という批判が当然噴出するでしょう。
ワタクシもこの問題に関しては十分認識していますし、常々これじゃあいけないなぁというふうに考えているのです。ですがそれでも、うんヶ月ぶりに寿司屋に足を運んだときの心の高揚、寿司と言う響きがワタクシのアニマに働きかける様子を感じていますと、ついつい好きな食べ物・寿司と抽象的にする誘惑に負けてしまうのであります。
寿司ネタにまで切り込んで、好きな食べ物ランキングを再構成することもできるのですが、そうするとベスト8なんて大半が寿司で埋め尽くされることになりかねません。こうなってしまうことがつまらないし、何もワタクシは寿司屋に行って、これが食べたいと明確にイメージしているわけではなく、寿司屋に行くこと自体が享楽になっているのです。
おっと、いくぶん言い訳的になってしまいました。

次に私たちが考えるべきことは、食材の数です。
たとえば、「茄子」と「海鮮ちゃんぽん」を比較してみましょう。これらはどちらともその名前を聞いて一意に食べ物をイメージすることができますので具体的だと言うことができます。
けれども、この2つの食べ物は性質が本質的に異なります。「茄子」は野菜そのものですが、「海鮮ちゃんぽん」だと、麺・スープのほか、キャベツ・あさり・えび・かまぼこ・ニンジンなどの様々な食材を必要とします。さらに、煮込む・炒める・ゆでるなどのコストがかかるのも特徴です。その点で、茄子の場合は非常にシンプルです。このようなケースで、茄子は海鮮ちゃんぽんよりもプリミティブであるとう言い方をします。
その食べ物がプリミティブであるためには、食材の数だけが問題になるわけではありません。たとえば、誰が作ったか、などの情報が加味されることがしばしばあります。
たとえば、「コーヒー」と「スタバのコーヒー」では、ふつうのコーヒーの方がプリミティブであると言えるのです。これは一見屁理屈な議論のように思えるかもしれませんが、どこで食べたか、誰と食べたか、いつ食べたか、などの情報は好きな食べ物をはかるうえで非常に重要な指標だと言えます。決してあなどってよいものではありません。
ですから、「おばあちゃんが作ったおしるこ」と「いちご大福」では単純比較ができないということになります。そこで優位差をつける仕組みが必要となります。
これはプリミティブ度ともよばれますが、一般的に汎用性という言い方をします。こちらの方が初心者にはわかりやすいのではないかと思います。汎用性、すなわち、いかにその食べ物を一般化できるかという指標です。

さて、ここで問題です。
汎用性が高ければ、その食べ物の好き度はより大きいと言えるか否か。
実は、この問題に関しては専門家の間でも議論が分かれるのです。

その答えについては次回をお楽しみに。