2009 年 10 月 のアーカイブ

視力0.1のすすめ 後編

2009 年 10 月 21 日 水曜日

食物担当大臣

どうも、内閣府特命担当大臣、食物担当大臣の唐獅子マスヨです。
今日は前回からの続き「視力0.1のすすめ 後編」でございます。

前回私は目が悪いということもいけないことばかりではないということを申し上げました。赤瀬川原平氏の「老人力」など紹介させていただきましたが、こういった心構えが私には非常に興味深く感じられます。
そして、視力が悪いということにおける最大のメリットは、覚醒しながらにして超現実を垣間見ることができることなんだということをほのめかし、前編を終了とさせていただきましたね。
本後編では、その超現実について言及して参ります。

視力がアラ0.1くらいのレベルに達しますと世の中には大抵フィルタがかかっていて、常にピンボケ祭りです。すると、遠くにあるものは一体なんなのか分かりません。
何やら何だか分からないものが見えると人間は、ピンボケしたごく少ない情報を頼りに自分の経験データベースに必死こいて検索をかけ、その物の正体を解明しようとします。
しかしですね、人間生まれたときはずっと目がいいですし、小さいころに目が悪くなったという人も大体めがねをかけますから、くっきりした世界を見ているんですよね。そういった環境で育っているから、視覚情報のデータが少なすぎるとデータベースから検索しきれないときがよくあるんですよ。
そうなるとどうなるか。
視覚心理学という研究分野はなかなかおもしろい研究を頻発していますけど、それらからも分かるように眼球というデバイスで処理しきれなかった部分は脳が大いに情報補完をするわけです。

盲点 -wikipedia
つぎはぎだらけの脳の心 -池田信夫blog

視覚情報を脳がカバーするという研究報告はこのほかにも枚挙にいとまがありません。
この現象が非常におもしろい。
経験データベースからあぶれた得体の知れない物体は、意味不明な物体としてそこにあり続けるわけではなく、何かしら脳によって補完、すなわち意味付けが行われるのです。
この脳のおせっかい機能がまれに極上の超現実を生み出します。

たとえば。
こないだ部屋でくつろいでいましたら、パッと見、カーテンのところに何やら黒い物体を見つけたのです。私はその瞬間どきっとしました。
なぜなら私は瞬時にその黒が何か分かったからです。
監視カメラだったのです。
自分の部屋になぜか監視カメラがとりつけられている・・・。一体誰が・・・。私こんな職業に就いておりますし、いろんな想像を巡らしました。
けれど近づいてみると、その黒がただのハンガーだったことに気付きました。

たとえば。
こないだ颯爽と自転車で街を走行しておりましてね、とある四つ角を左折した瞬間事件は起きました。
目の前のおばちゃんが、おばちゃんがですよ?私とそんなに歳もかわらないであろうおばちゃんが、天空に向かって銃をぶっ放しているのですよ。
腰抜かしますよね。誰だって。
でも、すぐに真相はわかったのです。おばちゃんはハンドバッグを頭の辺りにかざして日よけにしていたのです。

たとえば。
私はこれには本当にびっくりしたんですが、駅前の公園を歩いていてふと視線を感じたのでそちらの方に目をやると、チュウバッカがこちらを睨みつけていたのです・・・!

チュウバッカ
チューバッカ -wikipedia

あの一瞬私の脳に映ったのはまぎれもなくチューバッカでした。目が煌々としていて、「とられる・・・。」と思いましたね。
でも、本当はチューバッカなんていなくて、

ギャル

こんなかんじのただのギャルだったんですよね。しかも全然こっち見てもいなくて。

これらの現象のおもしろいのは、極自然に日常を暮らしていて、極自然な秩序の中に暮らしていて、あるとき不意に訪れる不秩序と出会うということです。
シュルレアレスム派の絵画にはどうもそういった要素がないのです。彼らの作品にあるのは、ちぐはぐさの中のちぐはぐさ。
私たちが見る「夢」も終始ちぐはぐしていることが多いですが、まれにとてもリアルな夢を見ることがあります。リアルなんだけど、何かおかしいといったような。
これがおもしろい。
私は日常の中に突如現れる不可思議こそが超現実の真骨頂だと思うのです。

視力が悪い=不幸だと信じて疑わなかったあなたは、こんなエキサイティングな毎日をおくっているでしょうか。
たまには視力0.1も悪くないということがおわかりいただけたかと思います。
これを応用すれば、たとえ失明しても世の中は楽しくなりえます。まだ耳、口、肌という感覚器が残っていれば。
私たち美食家はそうならんがための修行を怠ってはならないのです。

視力0.1のすすめ 前編

2009 年 10 月 20 日 火曜日

食物担当大臣

食物担当大臣の唐獅子マスヨです。
本日は食べ物に直接関係のございませんトピックでございますが、本物の美食家が世界をどう視るかということを力説して参りたいと思います。

さて、本日申し上げたいことは、「視力0.1のすすめ」ということです。
我々は特に意識することなく、視力がいい方が「幸せ」だとおもっています。それだけではなく、五体満足の方が「幸せ」、耳は聴こえた方が「幸せ」、病気でない方が「幸せ」・・・という具合に。
まあ、そういう風潮があることは事実です。
こういった感情はいたしかたないものかもしれません。
けれど、デバイスとしての”私”が劣化することを受け入れた者というのは、ある意味で本物の美食家と通ずるところがあり、また、彼らは人生において勝者であると私は思うわけです。

赤瀬川原平さんは、類稀なる感性で実におもしろいご指摘をされています。

赤瀬川原平 -wikipedia

彼とその一味は、「老人力」という著作で、老人力という概念を提示しました。


友人とか仲間どうしの場合、共通の知識を共通に忘れかけていることがよくある。何かのたとえ話をしようとしていてある人物の名前が思い出せず、
「えーと、ほら、あの、あれに出てた・・・・・・」
「そうそう、あれでしょ。あの、ほら、あれ・・・・・・」
とお互いに忘れてしまっている。でもちゃんと「あれ」だというのはお互いにわかっているのだ。

あるとき、相手は南伸坊君だったが、やはりそんなことを何度も繰り返していて、南君の方がつい、
「おっしゃることはわかります」
と言ったので大笑いした。

こういうのをぼくらでは「老人力がついてきた」という。

引用:老人力(筑摩書房)

老人力・・・。
赤瀬川氏は、富を増やそうだとか、豊かさを得ようだとか、平和を目指そうだとか、そういうことに言及するタイプの論者ではありません。
でもなぜでしょう。私だけでしょうか。彼の言うことには溢れんばかりの光が差し込んでいるように思うんです。
彼のような人間を見習っていきたいですね。

さてと、私実は視力が悪うございまして、ほとんど見えてないのにめがねもコンタクトもかけないというありさまでございます。
でも、目がほとんど見えてない生活も捨てたもんじゃないよということを訴えてまいりますね。

まず、これは序の口ですが、通りすがる男どもが全て美男子に見えます。相当近づかないかぎり50代と20代の区別もつきません。さすがにはげちらかしているかどうかは分かりますけどね。

ここからが本番なんですが、私あるとき、スーパーでお買いものしておりましたらね、尋常じゃなく興味を注がれた商品を見つけたのでございます。
その商品名は、「しりとりクッキー」
しりとりとはあの言葉尻をつかまえて、相手を批判しまくる王道ゲームのことかしら。あの国民的ゲームとクッキーをコラボさせるなんて一体どんなセンスをしていらっしゃるのかしら。
と、取り乱したのでございます。
そしたら、よく見ると、「しりとりクッキー」じゃのうて「しっとりクッキー」だったんですね。ただの「しっとりクッキー」だったんです。
けれども私はがっかりしませんよ。だって、私がお菓子会社の社員でしたら、即「しりとりクッキー」という商品名の企画書を書くはずですからね。
これは言わば、一瞬他人のアイデアかと思ったらそうではなかったっていう、この上ないラッキーなんですよ。しめたものなんでございます。
まあ世の中ぼかしを入れることで、見えてくる情報ってあるもんなんですよね。

私は、視力0.1の真骨頂はこれにとどまらないとふんでおります。
視力0.1はときたま私たちに超現実を見せてくれるのです・・・。

最近、閣僚のお話が長いと非難されますが、これまた次回に持ち越しです。ごきげんよう。