
どうも、内閣府特命担当大臣、食物担当大臣の唐獅子マスヨです。
今日は前回からの続き「視力0.1のすすめ 後編」でございます。
前回私は目が悪いということもいけないことばかりではないということを申し上げました。赤瀬川原平氏の「老人力」など紹介させていただきましたが、こういった心構えが私には非常に興味深く感じられます。
そして、視力が悪いということにおける最大のメリットは、覚醒しながらにして超現実を垣間見ることができることなんだということをほのめかし、前編を終了とさせていただきましたね。
本後編では、その超現実について言及して参ります。
視力がアラ0.1くらいのレベルに達しますと世の中には大抵フィルタがかかっていて、常にピンボケ祭りです。すると、遠くにあるものは一体なんなのか分かりません。
何やら何だか分からないものが見えると人間は、ピンボケしたごく少ない情報を頼りに自分の経験データベースに必死こいて検索をかけ、その物の正体を解明しようとします。
しかしですね、人間生まれたときはずっと目がいいですし、小さいころに目が悪くなったという人も大体めがねをかけますから、くっきりした世界を見ているんですよね。そういった環境で育っているから、視覚情報のデータが少なすぎるとデータベースから検索しきれないときがよくあるんですよ。
そうなるとどうなるか。
視覚心理学という研究分野はなかなかおもしろい研究を頻発していますけど、それらからも分かるように眼球というデバイスで処理しきれなかった部分は脳が大いに情報補完をするわけです。
盲点 -wikipedia
つぎはぎだらけの脳の心 -池田信夫blog
視覚情報を脳がカバーするという研究報告はこのほかにも枚挙にいとまがありません。
この現象が非常におもしろい。
経験データベースからあぶれた得体の知れない物体は、意味不明な物体としてそこにあり続けるわけではなく、何かしら脳によって補完、すなわち意味付けが行われるのです。
この脳のおせっかい機能がまれに極上の超現実を生み出します。
たとえば。
こないだ部屋でくつろいでいましたら、パッと見、カーテンのところに何やら黒い物体を見つけたのです。私はその瞬間どきっとしました。
なぜなら私は瞬時にその黒が何か分かったからです。
監視カメラだったのです。
自分の部屋になぜか監視カメラがとりつけられている・・・。一体誰が・・・。私こんな職業に就いておりますし、いろんな想像を巡らしました。
けれど近づいてみると、その黒がただのハンガーだったことに気付きました。
たとえば。
こないだ颯爽と自転車で街を走行しておりましてね、とある四つ角を左折した瞬間事件は起きました。
目の前のおばちゃんが、おばちゃんがですよ?私とそんなに歳もかわらないであろうおばちゃんが、天空に向かって銃をぶっ放しているのですよ。
腰抜かしますよね。誰だって。
でも、すぐに真相はわかったのです。おばちゃんはハンドバッグを頭の辺りにかざして日よけにしていたのです。
たとえば。
私はこれには本当にびっくりしたんですが、駅前の公園を歩いていてふと視線を感じたのでそちらの方に目をやると、チュウバッカがこちらを睨みつけていたのです・・・!
あの一瞬私の脳に映ったのはまぎれもなくチューバッカでした。目が煌々としていて、「とられる・・・。」と思いましたね。
でも、本当はチューバッカなんていなくて、

こんなかんじのただのギャルだったんですよね。しかも全然こっち見てもいなくて。
これらの現象のおもしろいのは、極自然に日常を暮らしていて、極自然な秩序の中に暮らしていて、あるとき不意に訪れる不秩序と出会うということです。
シュルレアレスム派の絵画にはどうもそういった要素がないのです。彼らの作品にあるのは、ちぐはぐさの中のちぐはぐさ。
私たちが見る「夢」も終始ちぐはぐしていることが多いですが、まれにとてもリアルな夢を見ることがあります。リアルなんだけど、何かおかしいといったような。
これがおもしろい。
私は日常の中に突如現れる不可思議こそが超現実の真骨頂だと思うのです。
視力が悪い=不幸だと信じて疑わなかったあなたは、こんなエキサイティングな毎日をおくっているでしょうか。
たまには視力0.1も悪くないということがおわかりいただけたかと思います。
これを応用すれば、たとえ失明しても世の中は楽しくなりえます。まだ耳、口、肌という感覚器が残っていれば。
私たち美食家はそうならんがための修行を怠ってはならないのです。
