2009 年 7 月 のアーカイブ

自由を論じる世のインテリどもが決定的に欠落しているある思考

2009 年 7 月 29 日 水曜日

総務大臣

「おいけのまわりにお花がさいたよ つめたろう」
キャッチコピーから失礼します。総務大臣の歌川つめたろうでございます。

今日はわたくしといたしましては、幾分まじめな話をしたいと思っております。
タイトルにありますとおり、「自由」についてのお話です。途中便所に行きたくなられましたらば、後方とって口より出られて右手にございますので、速やかに退席願います。

学問を志す者は誰でも、このテーマを言及しないわけにはいきません。哲学者も、社会学者も、経済学者も、はたまた科学者であっても、「自由を与える」という建前で研究を展開していきます。これは私が思うに、異議を唱える余地のない、すなわち「自由が本当に必要なの?」と問いかけることに意味のない、本当に根源的な人類共通のテーマなのです。

世の中を見てますと、政治的な立場として「リベラル」というものがあります。これは「自由主義者」と捉えることもできましょうが、なにも「リベラル派」だけが自由を唱えているわけではない。共産主義だって、全体主義だって、宗教家だって、それぞれの自由を主張しているのです。今はたまたま多数の人が資本主義に自由を感じているだけであって、そのバランスが崩れれば何が自由か、という概念も変わってくるはずです。

たとえばマルクスは、「自由とは自由に活動できること。自由時間の拡大こそが目的である」と考えました。これは、好きなときに働いて、好きなときに遊べる、労働時間を短縮するという意味です。マルクス本人はそれが本当の自由ではないことを指摘しているそうですが、「自由とは時間があること」、ととりあえずは考えたのです。
もちろんそんなわけはありません。時間が腐るほどあれば自由なのか?
仮にこれが自由だとすれば、そんなものを人生賭けて勝ち取ろうなんて思いませんよね。永遠の生が仮にあるとすれば、それは地獄でしかないでしょう。人間はいつか死ぬことを知っているから心が豊かなのです。三島由紀夫が金閣でほのめかした美の概念は今になって私にはよく分かります。
けれども、現代の科学とか市場というのはどうもここんところが分かっていない。科学や医学はますます進歩して、それに経済学が合わさって、ますます私たちは生老病死を隠蔽され、わずらわしさを意識することなくすむのです。
これが善だと本気で考えている人ははっきり言って論外です。

これと比べて、たとえばヒンドゥー教に代表されるような、宗教が考える自由は非常に興味深い。
ヒンドゥー教は「自由とは、自らを束縛する欲望から解放されること」とといています。
こういう考えを聞かされると、私なんかははっとさせられる。欲望にただ突き動かされる人生なんて、たしかに屑だよなあ、と。この欲望を何とかせねば・・・、というのも分からないではない。
けれども、腹が減っては戦ができぬというのは私には分かるし、ある程度の余裕があっておおらかな心を持てる気がするんです。つまり、欲望をどこまで排除するのか、そのためにイライラしはじめたら元も子もない。バランスをどこでとるべきか・・・。
それに、この事実は私にとって悔しいことでしかないのですが、薬物中毒になるほど欲をコントロールできない連中が、どういうわけか至高の音楽を奏でたりする。

哲学者は、人智を超えた偉大なものではなく、もっと人間そのものを深く分析してきます。
私は彼らの著作をひとつひとつ確認してはいませんが、あえて申し上げるなら、哲学者なる人々は学問を基盤としているため、どんなに壮大な見識を持っていたとしても、それを文章にし、体系化しなければならない。その時点で矮小化されてしまうと思うのです。
これは私の憶測ですが、哲学者たる者も自らの博学さゆえに、自己矛盾に気がつき、苦悩していたのだと思います。
たとえば、ニーチェは偉大な哲学者の一人としてあちこちで継承されていますが、彼の最期は非常に興味深い。

ここまできて、養老孟司を持ちだすのですが、「何事も一元論では語れない」という一元論に辿りつきます。要するに一概には言えないよ、というだけのことなのですが、彼らは相当自由に近づいているというのが私の印象です。
なぜならば、常に他の選択肢を受け入れる心の豊かさがあるからなのです。絶対的なものを据えない自由さというのはたしかにあります。
けれども、私はこれでも満足しません。なぜなら、一元論を選ぶという選択肢を彼らは排除しているからです。人間は、一元論が非常に気持ちよく感じるものなのです。たしかなものなど何もないと言われて、一体どれだけの人が救われるでしょうか・・・。

ここまで世のインテリたちの観点を追ってきたわけでございますが、つまり彼らに欠けていたものとは、主張からの解放なのです。
これは主張を持たないという意味ではありません。主張をするな、ということでもありません。
一旦ある主張をしたあとに、それと整合性を持たせるために感じる不自由さからの脱却を言っているのです。
人間がどうなれば幸せか、ということを論理立てて考えることはできないのだと思います。これを論理で解決しようとしたり、実証的に法則を見出そうとしたりするところに「不自由さ」が姿を現す。
人間はこの生に意味がなければ生きられない、とよく言われますが、そんなことを言い出すのは大抵男です。女という生き物はまことに不思議ながら大義名分などなくてもひょうひょうと暮らしています。

この点から言うならば、ヘベレケ令嬢が好きな芸能人をタモリと答えるあたり、私は最近よく分かる気がします。一貫性のなさが神秘的な自由さを醸し出しているのです。
けれども、やはりナンバーワンの自由人はポックリボーイではないかと思うのです。自由を論じる人たちはもっとポックリボーイを参照してしかるべきだと私は思います。
ただし、ポックリボーイの自由さを見ていると、ある種の不自由感におそわれる感覚があります。
この正体は自らの能力に対する不自由感です。つまり、ポックリボーイと同等の発想をできないことに能力的な限界を感じて歯がゆい思いをするのです。

けれども私は最後にこう付け加えておきたい。
自らの能力に不自由を感じる世の中こそ、真に豊かな社会であると。

選挙活動のIT化、ネット献金などに対する見解

2009 年 7 月 27 日 月曜日

カンボウ長官

官房長官のカンボウ長官です。いい加減覚えてくださいね、みなさん。
いよいよ選挙シーズンですね。下界では何かが変わるか変わらんかとしていますが、衆院選の結果次第ではおともだち内閣にも何やら変動があるかもしれませんよ。お楽しみに。

さて、今日のテーマは「インターネット選挙」や「ネット献金」についてです。
これらの議題はもちろんネット上で選挙活動を行うことができるシステムのことですが、いろいろ利点欠点ある中で、技術的問題点、すなわち本人確認だとかクラッカー対策などはできるものとして私どもの見解を述べていきます。

実は、民主党っつう政党はインターネット選挙に肯定的で過去に何度も公職選挙法改正案を提出しています。
ネット選挙
>>1996年、新党さきがけは当時の自治省にインターネットの選挙活動利用に関する質問書を提出した。1996年の衆議院選挙は初のネット選挙と注目され、選挙後の1997年5月には超党派の国会議員によるインターネット政治研究会が初会合を開いている。そして、1998年6月に民主党からネット選挙解禁を盛り込んだ公職選挙法の一部を改正する法律案が提出された。
また、野党の民主党はインターネットでの選挙運動を解禁する公職選挙法の改正案を2006年6月に国会に提出した[5]。

まあ、こういう意見は当然あって、他にも
ネット選挙活動 解禁を -勝間和代
ネット選挙 -ホリエモン
このようにインターネットの選挙活動活用に対する機運は高まってきています。
私どもおともだち内閣の天敵であり、敵ながらあっぱれな江田けんじ殿も前からしきりに訴えておられます。

彼らリベラル系の論者は決まってオバマ政権誕生の例を引き合いに出し、ああいうのが日本に生まれないのは世代間闘争に原因があるという言いぶりをします。それを打開するためのネット活用を!民主主義を!なんてね。

ここいらで私どものこの件に対する考えを申し上げておきましょう。
候補者によるネットの活用は許してもいいかもしれないが、投票者によるネットの活用は断じて許さない。
これはつまり、候補者がインターネットを使ってじゃらじゃら選挙活動を行い情報を垂れ流すのは、まあある程度までなら許されるだろう。しかし、投票者がインターネットを使って投票ができたり、献金ができたりする仕組みは許されませんよ、という意味です。

私はね、しばしばこういうことを考えるんです。
この世の中には搾取する側よりされる側が多く、仕事が厳しすぎていやになってる人の方が圧倒的に多いはずなのに、なんで共産党に一票投じないんでしょうか?当然この資本主義で恩恵を受けている集団もいるはずですけど、1億人も人間がいたらそういう恩恵にあずかれない人の方が圧倒的に多いはずですよ。彼らが力を合わせれば共産党が政権とるなんて夢じゃないでしょう。
もちろん私はこうなることが恐ろしくてしょうがない。(その政府側につかない限り)
けど、なぜそうならないのかと考えてみると、やはり答えはバカだからなんです。仕事とかがつがつできない人たちにとっては共産主義の方がよりよい社会であるということにすら気がつかないバカだからなんですよ。
私はね、自分にとっていい社会が何なのかとか、どうしたいとか、そんなんが全くなくて、積極的に情報を集めてその答えを見いだそうとしない人には一票投じる権利などあろうはずがないと思います。だから投票率が低いという現状はそんなに問題ではない。
かわりに私どものようなエリートがしっかりと引っ張っていけばいいのです。

けれども、ネットで投票とか献金とか許したらそうはいかない。ちょっと楽ちんだからといって軽い気持ちで政治参加ができてしまう。
ネット投票・献金解禁を通じて興味を持つ人が現れるかもしれない、という人がいるかもしれません。
けど、所詮その程度なんですよ。わざわざネットを使ってコンビニエンスにしないと興味を持たない、その程度の人間がいっちょまえに政治に参入してくる。崇高な理念なしに。

本当にこの国の政治を変えたいと思うなら、ちょっとやそっとの責任やリスクは負えよ!便利さを求めるな!このバカどもが。

たとえばですね、空港を建設するといって、地元住民が立ち上がって抗議する事例がよくありますよね。
なんだか世間は、空港建設反対勢力に対して冷ややかですよね。
でも、自分の故郷を奪われる人の気持ちをどの程度考えているのか、については見ものです。つまりですね、「極少数の人たちにとってのかけがえのないもの」と「大多数の人たちのほんのちょっとの簡便性」が天秤にかけられているのです。これを最大多数の最大幸福なんて考え方で解決しようとすることがナンセンスです。そんな民主主義はくそくらえだ。
空港を建てる側、行政こそが本来デモを起こすべきなのです。そして何のリスクも負わずにこれを揶揄する第三者には、はっきり言って国を動かす資格はありません。

なに?!このおともだち内閣がネット上でぺちゃくちゃ言ってどんな責任を負ってるのかだって?!
そんな質問にはお答えできません。

一億総白痴から一億総表現社会へ

2009 年 7 月 20 日 月曜日

経済産業大臣

どうもどうも、経済産業大臣の木村ピクミンでございます。
インターネットってすごいでございますよね。知ってますか?インターネット。すごい技術なんですよ。

で、今IT技術のコストって年々すごいスピードで下がってます。そのスピードはデニス・ロンメダールに匹敵するという研究報告もあるほどです。
そうすると昔は高価だったものが、今や一家に一台パソコン。あろうことか、インターネットの普及もあってブログなんてのが猛威をふるって、一億総表現社会だのと言われ始めました。
一般人が情報発信者になれる・・・、これは私なんかからしますと非常にエキサイティングな社会なんですけど、一般人が参入することでコンテンツの質の低下っていうのはさんざん言われ始めてますよね。梅田望夫さんのおっしゃることには、それでも玉石をうまく選りすぐる技術が発展することによって、消費者発信メディアというのは世の中によき価値をもたらすと。

まあ、それはそうなんですけどねえ。
私が今回文句をたれたいのは、だからと言ってIT技術に基づく新たなライフスタイルが「一億総白痴化」を免れたかのような風潮になっていることです。
むしろ逆ですよ。ブログを書いてるから、SNSやってるからという体裁だけが整ってしまうゆえに、ついつい空虚な生活を送っている自分に気付きやしない。
科学技術が先端化してくるなら、前にも増して内省的になり、自分は白痴化してないかと問い続けることが重要なんですよ。

Googleみたいな野郎が現れると、極端に情報が整理され始めて、それ自体はいいんですけどね、情報整理術みたいなアルゴリズムが必要ないところにまで介入してくる。その最たる例が、今やあちこちに見られる推薦システムです。
特に吐き気を催すのは、旅行ルートの推薦ですわ。まず清水寺行って~、次ここ行って~、お土産はここで買うといいよ~みたいな!ああ!!こんなの参考にして、この通りに旅行行くやつなんて砂粒ほどの興味もない!
分かりますよね?どれだけ想像力を奪われているか。
旅行すらも、全速力でただ消費してるだけになってます。なんなんすかその決定論的人生は。

もっと枠組みから脱出する気概がほしい。たとえば、家族連れで「ディズニーランド」の入り口まで行って、そこから急激に引き返して「わたしの仕事館」で1日つぶすとかね。この世には無限の可能性があるんです。

ブログだってそうなんですよ。なんで今日食ったものとかをだらだらと紹介してんすか。気概が感じられないんですよね。
やっぱね、タイトルから問題あるんですよ。
いきなり「徒然日記」とか、「徒然なるままに」とか・・・。
でなくても、サブタイトルに「日々徒然と書きつづる」みたいな文言を入れてるのが目につきます。
はじめからだらだら書きます宣言で、戦意喪失してる印象を受けますね。

ですからみなさん、今後はポックリボーイを参考にするとよいでしょう。

誰や!このサイトこそ白痴化してるなんて言ったやつは!!
許さんぞ!国家権力だぞこっちは!