
「おいけのまわりにお花がさいたよ つめたろう」
キャッチコピーから失礼します。総務大臣の歌川つめたろうでございます。
今日はわたくしといたしましては、幾分まじめな話をしたいと思っております。
タイトルにありますとおり、「自由」についてのお話です。途中便所に行きたくなられましたらば、後方とって口より出られて右手にございますので、速やかに退席願います。
学問を志す者は誰でも、このテーマを言及しないわけにはいきません。哲学者も、社会学者も、経済学者も、はたまた科学者であっても、「自由を与える」という建前で研究を展開していきます。これは私が思うに、異議を唱える余地のない、すなわち「自由が本当に必要なの?」と問いかけることに意味のない、本当に根源的な人類共通のテーマなのです。
世の中を見てますと、政治的な立場として「リベラル」というものがあります。これは「自由主義者」と捉えることもできましょうが、なにも「リベラル派」だけが自由を唱えているわけではない。共産主義だって、全体主義だって、宗教家だって、それぞれの自由を主張しているのです。今はたまたま多数の人が資本主義に自由を感じているだけであって、そのバランスが崩れれば何が自由か、という概念も変わってくるはずです。
たとえばマルクスは、「自由とは自由に活動できること。自由時間の拡大こそが目的である」と考えました。これは、好きなときに働いて、好きなときに遊べる、労働時間を短縮するという意味です。マルクス本人はそれが本当の自由ではないことを指摘しているそうですが、「自由とは時間があること」、ととりあえずは考えたのです。
もちろんそんなわけはありません。時間が腐るほどあれば自由なのか?
仮にこれが自由だとすれば、そんなものを人生賭けて勝ち取ろうなんて思いませんよね。永遠の生が仮にあるとすれば、それは地獄でしかないでしょう。人間はいつか死ぬことを知っているから心が豊かなのです。三島由紀夫が金閣でほのめかした美の概念は今になって私にはよく分かります。
けれども、現代の科学とか市場というのはどうもここんところが分かっていない。科学や医学はますます進歩して、それに経済学が合わさって、ますます私たちは生老病死を隠蔽され、わずらわしさを意識することなくすむのです。
これが善だと本気で考えている人ははっきり言って論外です。
これと比べて、たとえばヒンドゥー教に代表されるような、宗教が考える自由は非常に興味深い。
ヒンドゥー教は「自由とは、自らを束縛する欲望から解放されること」とといています。
こういう考えを聞かされると、私なんかははっとさせられる。欲望にただ突き動かされる人生なんて、たしかに屑だよなあ、と。この欲望を何とかせねば・・・、というのも分からないではない。
けれども、腹が減っては戦ができぬというのは私には分かるし、ある程度の余裕があっておおらかな心を持てる気がするんです。つまり、欲望をどこまで排除するのか、そのためにイライラしはじめたら元も子もない。バランスをどこでとるべきか・・・。
それに、この事実は私にとって悔しいことでしかないのですが、薬物中毒になるほど欲をコントロールできない連中が、どういうわけか至高の音楽を奏でたりする。
哲学者は、人智を超えた偉大なものではなく、もっと人間そのものを深く分析してきます。
私は彼らの著作をひとつひとつ確認してはいませんが、あえて申し上げるなら、哲学者なる人々は学問を基盤としているため、どんなに壮大な見識を持っていたとしても、それを文章にし、体系化しなければならない。その時点で矮小化されてしまうと思うのです。
これは私の憶測ですが、哲学者たる者も自らの博学さゆえに、自己矛盾に気がつき、苦悩していたのだと思います。
たとえば、ニーチェは偉大な哲学者の一人としてあちこちで継承されていますが、彼の最期は非常に興味深い。
ここまできて、養老孟司を持ちだすのですが、「何事も一元論では語れない」という一元論に辿りつきます。要するに一概には言えないよ、というだけのことなのですが、彼らは相当自由に近づいているというのが私の印象です。
なぜならば、常に他の選択肢を受け入れる心の豊かさがあるからなのです。絶対的なものを据えない自由さというのはたしかにあります。
けれども、私はこれでも満足しません。なぜなら、一元論を選ぶという選択肢を彼らは排除しているからです。人間は、一元論が非常に気持ちよく感じるものなのです。たしかなものなど何もないと言われて、一体どれだけの人が救われるでしょうか・・・。
ここまで世のインテリたちの観点を追ってきたわけでございますが、つまり彼らに欠けていたものとは、主張からの解放なのです。
これは主張を持たないという意味ではありません。主張をするな、ということでもありません。
一旦ある主張をしたあとに、それと整合性を持たせるために感じる不自由さからの脱却を言っているのです。
人間がどうなれば幸せか、ということを論理立てて考えることはできないのだと思います。これを論理で解決しようとしたり、実証的に法則を見出そうとしたりするところに「不自由さ」が姿を現す。
人間はこの生に意味がなければ生きられない、とよく言われますが、そんなことを言い出すのは大抵男です。女という生き物はまことに不思議ながら大義名分などなくてもひょうひょうと暮らしています。
この点から言うならば、ヘベレケ令嬢が好きな芸能人をタモリと答えるあたり、私は最近よく分かる気がします。一貫性のなさが神秘的な自由さを醸し出しているのです。
けれども、やはりナンバーワンの自由人はポックリボーイではないかと思うのです。自由を論じる人たちはもっとポックリボーイを参照してしかるべきだと私は思います。
ただし、ポックリボーイの自由さを見ていると、ある種の不自由感におそわれる感覚があります。
この正体は自らの能力に対する不自由感です。つまり、ポックリボーイと同等の発想をできないことに能力的な限界を感じて歯がゆい思いをするのです。
けれども私は最後にこう付け加えておきたい。
自らの能力に不自由を感じる世の中こそ、真に豊かな社会であると。

