2009 年 5 月 のアーカイブ

2次元画像に萌える男たちの超現実主義者説

2009 年 5 月 29 日 金曜日

文部科学大臣

久しぶりでございます。文部科学大臣の本田スパニエルでございます。

少し前の話になりますが、2次元キャラクターとの結婚を認めてほしいと政府に訴える署名運動が行われておりましたね。
本気の人もいれば、冗談半分な人も、そしてその運動に冷ややかな目を向ける人たちも、いろんな方がおられたことでしょう。

今回わたくしが言論させていただきますのは、その中でも、かのようなネットの住人に対して「現実逃避」だと言って蔑むような態度を見せる方々に対してひとこと申したいと思っておるわけでございます。
わたくしはおそらく日本で初めての、「2次元画像に萌える男たちの超現実主義者説」の提唱者です。

その自論の根拠は、すこし時を遡ります。
まず西洋絵画の歴史を辿ってみますと、やはり極めて厳密な遠近法を用いた構成に気が付きます。
古来から合理的な思考を得意とする西洋文化にしては、やはりと言うかさすがと言うか、かっちりとした絵を描くわけでございます。

ところがどっこい、いつまでもその数学的な理論的な絵画を描き続けるものと思いきや、日本の絵画構成に影響を受けるなどして、美術の歴史は変動を見せ始めるのでございます。
時期的には、印象派、ポスト印象派あたりのところでしょうか。
セザンヌ、ゴッホなどの奇才が登場するのを皮切りに、それまでのかっちり遠近図法主義に疑問が投げかけられるようになるのです。

つまり、机を描きたいとするとき、数学的な遠近法によって線を引き、図を構成していくことは”現物”を描いたと言えるのか、ということです。なぜなら、我々が机を見るとき、たとえば机の右端を見るときと、左端を見るときでは若干視点が変わってしまうので、構図にずれが生じてしまうはずだからです。
実はセザンヌの作品には、このような微妙なズレが再現されている個所が見られるそうです。

これはのちのキュビズムだとか、シュルレアリスムに影響を与えます。
結局、3次元の世界を2次元平面に正確に描きこもうとすることに無理があるということです。我々の見ている世界はそんな世界ではありません。目だって2つあるんです。右目と左目で別々に見た映像を脳みそでうまい具合にブレンドした映像、クオリアを見ているわけなのです。
この事実を受け止めた上で、絵画を平面的なものとして描くという一連の活動には興味深いものがあります。ピカソを代表格とするキュビズムは、様々な視点から見た図を一平面に凝縮する。
これは我々の見ている世界の真髄を捉えかけています。

シュルレアリスムになると、さらに「現実とは何か」という問題に踏み込んでいきます。
シュルレアリスム御一行になると、無意識の世界こそが現実であると主張しやがります。つまり夢で見る映像のような、意識的でない、主観を排除したものこそが最高の現実なのではないかと。つまり、脳みその中で勝手にかちゃかちゃやってることがこの世の本質なのだと。
そういうわけで、偶然性を重視した、たとえば無意識の落書きのような、そんな夢心地の作品を創り始めるわけです。

ここまで言えば、もうわたくしが何を言いたいかお分かりのことでしょう。
2次元画像に恋をしてしまう男たちは何かと冷ややかな視線を浴びせられがちですが、あえて彼らを擁護するならば、「じゃあ3次元は現実なのかよ?」ということです。
我々は結局3次元の世界を2次元に落としこんだ世界を見ているんです。それならば、2次元こそが現実に近いのではないでしょうか?
2次元変換された3次元の女性なんてまやかしなのではないでしょうか?

それにこういった解釈も可能です。
そもそも自分の容姿や言動に自信を持てない者たちが、生身の人間に憧れるということ自体が現実逃避ではないでしょうか?
自分の立ち位置を受け入れた上で、「2次元しかない。」という選択をされた方々はある意味で現実主義者であるのかもしれません。

現実とは何かと考え始めるとさらに不気味な様相を呈してきます。
そもそも「生身の男性は生身の女性に恋をする」という現象が、実は帰納的な推論に過ぎず、一種の強迫観念としてこの世に存在するものだとしたらどうでしょうか?
だとしたら、むしろ彼ら2次元愛好家の掘り起こした無意識の現実(2次元に恋をするということ)は、功績とも言えるべきものではないでしょうか?
インターネットは無記名書き込みができるという点から見ても、本能的なメディアだとも言われます。インターネット発の2次元萌え集団はある意味で本能的、本質的だとも言えるのだと思います。

もう一度言います。2次元に萌える男たちに「現実逃避」だと言って冷たい視線を向ける方々に、それじゃああなたの考える現実って何ですか?と問いかけたい。現実とは何かをまともに議論しないで、やれ逃避だ、防衛機制だ、ニートだなどと言うものじゃありません。よっぽど彼らのほうが現実を捉えています。

なに?現実とは何か考え始めることにまさる現実逃避はない?
黙りなさい。そこのあなた。

小学生が書きそうな作文「ちっこい虫の世界」

2009 年 5 月 25 日 月曜日

総務大臣

おいけのまわりにお花がさいたよ、
キャッチコピーから失礼します。おともだち内閣総務大臣歌川つめたろうでございます。

いちポエマーとして内閣内でも定評をえはじめたこのごろですが、今回はまた新たな取組みでございます。小学生が書きそうだというテーマで、少年時代に立ち戻って、筆を転がしてみようかと思っております。

「ちっこい虫の世界」  歌川つめたろう

クラスがえがあってしばらくたちました。ぼくら5年4組もだんだん雰囲気もよくなって、まとまってきました。学級委員長の魚田くんがまれに見る求心力を発揮してクラスの指揮ををとり、監査委員の葛西さんがその歯止め役となってバランスをとるという構図がとてもよく機能してきはじめたなと思います。

去年も、おととしもそうだったんですが、クラスがまとまりだす時期というのは、決まって暑くなりはじめる季節です。
ぼくは冬よりも夏のほうが好きですが、暑くなるといやなのは虫が出てくることです。蚊とかちっこい虫がぶんぶん飛び回って目ざわりなんです。
そうすると家でくろいでいるときに飛んでる虫を見つけると、家族の目の色がぎろりとかわります。そしてパン!と手をたたいて目ざわりな虫どもをほうむり去ります。

けれどぼくはその時ふと思うのです。ぼくが虫の立場だったらどうだろう?

ぼくが自分よりも何倍も大きい手によって一しゅんでつぶされるということを考えると、残こくだと思います。
残こくというのはわかっていて、その一方でぼくはパチパチやってつぶしてゆくのです。

ところが、虫のほうもだまってつぶされているわけではないのです。
このまえ一匹こしゃくなやつがいて、パチンとたたいて、つぶされたのを見ようと思って手をひらいたとたん、なにごともなかったように逃げていくやつがいました。
虫はちっこいので、人間が手を合わせても、うまくいけばそのすきまで生きのびることができるからです。

けど、そんなことはめったにありません。この虫は奇跡的に助かったのです。九死に一生を得たのです。いまごろは、人間のパチンに直げきしつつも生かんした英雄としてインタビューを受けていたりしてるのだと思います。

うそつきノーランドの大罪

2009 年 5 月 18 日 月曜日

外務大臣

みなさんはじめまして。外務大臣の「烏丸・ランドレス・薪道」と申します。

本日は、いきなり本題に入りますが、藤沢数希殿のような方がしきりにうったえておられるグローバリズムについて物申したいことがありおりはべり、参りました次第でございます。

途上国の貧しい人々を本当に搾取しているもの -金融日記

藤沢殿は、一般市民から見るとまぎれもなく「天才肌」とよばれる部類に入りましょうか。
このような、能力があってあってしようがないという方たちにとっては、この世の中はとにかく住みにくい。既得権益にすがって真っ向から勝負してこない輩、嫉妬渦巻く意地汚い世間・・・。
社会に莫大なる恩恵をもたらしているにもかかわらず、彼らに対する真っ当な評価がなされない、特に日本では。

天才肌タイプの方々はやはりある種の解放のようなものを欲しておられるように思います。そして世の中の理不尽さをひとつひとつ潰してゆき、理想の社会を作ろうと。フェアな社会をと。
そのような考えを前提にするならば、やはりグローバリゼーション、開かれた市場、競争社会という発想に向かっていきます。

けれども、わたくしの考えでは、なかなかどうしてそのような方法では一般庶民の幸福は得られないのではないかと思うわけです。
というのも、合理的な社会というのは大都市のように隅々まで徹底管理された社会であり、そこには弱者にとっての居場所がないからです。

「おめえなに中だよ?」
というやりとりがしばしば中学生の不良の間でなされます。これは激動の思春期時代疾走中の中坊が、同じ中学=仲間意識、違う中学=敵対視、と無理矢理に敵対関係を創出することで居場所を確保しているのだと考えられます。
言うまでもなく理不尽極まりないクラスタリングですが、敵を作るという作業は所属の欲求を満たすという意味で、あなどれない部分もあるかと思うのです。これによって、才能の有無にかかわらず、○○中××族構成員というポジションを与えられる・・・。

社会の合理化が進むと、圧倒的にこの類の集団形成は少なくなります。大都市に存在するコミュニケーションは、ゲーム理論で語られるような経済的観点によってのみ支えられるコミュニケーションばかりになってくるのです。当然そうなるならば、業績をあげることができない非才な市民は居場所がなくなる(コミュニケーション対象として見なされない)ということです。さらに言えば、IT化がムーアの法則に基づいて阿呆みたいに急進すると、オートメーション化も急進するわけで、はじき出される人間というのも急増するのでしょう。
ネットカフェ難民なんて社会現象が取り沙汰されていますが、居場所がない、帰る場所がない人々の苦しみは想像を絶するものだと思います。それは体験した者でないと分からない。
ネットカフェやマクドナルドのようにコーヒー一杯で夜通し居場所を提供してくれるというサービスが資本主義の中から生まれるということはありえましょうが、根本的な解決にはなりません。

とは言え、そんな単純なことではないのかもしれません。新たな価値を見つけて新世界を生きていくスタイルができるかも分かりませんし。そうではあるんですが、つまり私が申し上げたいのは、藤沢殿のように大きな影響力を持った方が、”単純に”グローバリゼーションで世の中は幸福になると言っていただきたくないのです。
結局それは、あなたが住みよい社会像なだけじゃないかと。

最後に。
だいぶ昔の話になりますが、尾田栄一郎殿の超傑作「ワンピース」を引用し、そこで登場するキャラクター「うそつきノーランド」の犯した甚大なる罪について、いちゃもんつけたいと思います。

ノーランドの罪を端的に申し上げるならば、神殺しを行ったことです。それが一番の問題であります。

けれども、シャンディアの村は疫病が蔓延しており、ワクチンによって村を救ったノーランドは救世主であり、実際に村人からも歓迎され、万事よしのように原作では描かれています。
けれども本当に全てうまくいったのでしょうか?わたくしはそこに疑問を抱かざるをえません。

シャンディアの村は疫病によって壊滅的な打撃を受けており、村人は生贄によってその厄災を鎮めようとしました。
本来、このような大いなる自然災害、病、死から逃れるために文化・芸術といったものは発展してきたはずです。ましてや由緒伝統あるシャンディアの一族ですから、この際伝統を重んじて生贄えを捧げるという行為は彼らからすれば当然のことなのです。

もちろん理不尽極まりないことではありますよ。生贄に捧げられる身からすれば。
こんなこと言ったら人権団体に目ん玉ひんむいて叱られそうですが。
けれども、「神の存在を信じ」、「その象徴が大蛇であり」、「その神に誠意を見せることで難を逃れられる」という思考様式こそが一族の文化・アイデンティティであったはずです。「その難を逃れるために科学を用いる」という文化と、そもそも優劣をつけられるものなのでしょうか?

シャンディアの村は結果的にはノーランドを歓迎し、科学・合理性というものを受け入れました。
それは別におかしいことではありません。目の前の死の恐怖から逃れるために合理的な道を選んだだけの話ですから。
けれども、それだけ科学などの普遍的価値の力は強いということです。あのシャンディアがですよ?あの伝統でがんじがらめのシャンディアでさえも普遍的価値の甘い罠にあらがえなかったということです。
それで平和的な解決になったじゃないかと思われる方もおられるでしょう。たしかに、最終的に疫病に対してワクチンを用いるという決断はシャンディアが自ら下しました。
けれどもそれによって失ったものはでかい。彼らは自らの存在意義としての、うん百年の歴史ある伝統をあの一瞬で失ったのです。そのあとどうなるかは推して知るべし。
医療分野には科学を導入するでしょうし、そのために貿易をするでしょう。そうなればあとはどんどんグローバリズムの波が押し寄せて、我々と何ら変わることのない平凡な一市民になるのを待つだけなのです。その後、厳しい情勢にでもなれば居場所を求めて彷徨い、果てにはシャンディアの中にも自殺する者が現れる時代になるかもしれません。
それは神の存在を全否定され、依拠するところがなくなったからなのです。

だから、先進国というのはグローバリズムという発想についてもっと慎重にならなければなりません。仮に科学が普遍的なものだとしても、それによって民族が幸福になるのか、真剣に考えなければならないと、その責任があると思うのです。

生き死によりも重要な価値があると、わたくし個人的には思いますが、それは人それぞれ違います。それが自分でない他人にとって、他民族にとって何なのか・・・、そんな認識が重要なのだと言いたかったのです。

追加経済対策15兆円で神の領域に・・・。

2009 年 5 月 7 日 木曜日

財務大臣

ますますご健勝のことと存じますおみなさまがた、おつかれさまですおひさしぶりです。財務大臣のもつ鍋です!

おみなさまがた、ご存知でございましょうか。ただいま世の中は1年に100度の経済危機だと言われているのです。
あ、間違えた。100年に1度です。
1年に100度て。4日に1回はくるやんか。4日に1回くる経済危機ってどんなもんや。「pigmybank studio会社更生手続き申請!」とかゆうニュースは4日に1回くらいの経済サプライズかな。んなこたないね。60秒に1回くらいのサプライズやね。
むしろpigmybankやったら更生できる見込みないのに、果敢にも更生手続き申請したところが驚きだったりするね。

ゴホン。とにかくですね、経済がとにかくよろしくないのです。リーマンブラザウルスとかいう恐竜が絶滅したりしたんですよ。
わたくし閣僚ですので、その筋には詳しいのです。

で、ですよ。日本では大騒ぎになっちゃってまして、15兆円追加で景気対策やらんばんとじゃなかとってなことになっているわけです。まえの補正予算では70兆出動してましたから、金銭感覚があれになってますけど、海外では「日本はバカか」みたいなこと言われてるらしいですね。国内では「まだ足りん」などという声もあるようですが。

で、ですよ。わたくしの見解を述べさせてもらうならば、悪い気はしないんですねぇ。なぜって、ありがたがられるじゃないですか。私どもの財政出動によって感謝する市民らを集めれば私どもは神格化されるのです。のちのち宗教法人を新規設立して、僕が教祖となることも可能です。もちろんそうなれば私はアニマル浜口と叶姉妹を幹部に据えます。

けれどもですね、不穏にもこの対策に異議を唱える者が少なからずいるようです。
たとえば、超人大陸では、渡辺よしみちゃんがこれについて文句をたれています。

渡辺よしみの政界生中継「15兆の使い方に唖然」

渡辺氏の主張は以下の点にポイントがあるようです。

雇用保険の非加入者で離職した人々に対するバラマキは、雇用能力開発機構をぶくぶく太らせる。
損害担保制度の出資枠の新創設は、役所の権力を増大させる。
住宅金融支援機構のフラット35のような策はこの不況下に機能するのか(いや、機能しないだろう)。
ハイブリッドカー、グリーン家電対策は、財団法人省エネルギーセンターのような独立行政法人が権力を持つことになる。
つまりこのような経済対策のほとんどが、局所的に見れば助かる人々もいるだろうが、救われるかそうでないかは結局役人の裁量で決まる。「どこに金を出すか」という強大な力を、役人の天下り先の温床となっている法人が握ることになる。このドタバタの後にはぶくぶくに太った官僚組織と膨大な借金が残り、それを消費税増税で尻拭いさせられる。これが本当に景気対策となるのか。

といった内容です。渡辺氏結構怒ってらっしゃいますね。

ですが、15兆円もあれば、1000万円を150万人に配ることができます。150万世帯に配ると考えても、それを実行するだけで巨大新宗教を興すことができるのです。ピンチのときに金を配られた人からすれば、私どもは神に相当するわけですから。それを阻止しようなんて者は断じて許さない。徹底的に闘ってやりますよ。こっちは国家権力ですよ。

ちなみにアニマル浜口と叶姉妹は、正直この計らいには無関係です。念のため。

江戸文化歴史検定のウェブサイトに行政指導

2009 年 5 月 2 日 土曜日

厚生労働大臣

みなさん、また会いましたね。

インフルエンザが恐ろしい。このゴールデンウィークシーズンに。おともだち内閣厚生労働大臣として、注意喚起しておきます。
それから、不況ですよ。内定取り消し過去最多とか、20云年ぶりの貿易赤字だとか。
それから、北朝鮮が相変わらず恐ろしい。
問題というのは消えないものですね。より多くの、多様な人間が集まるほど問題は深刻なものとなっていくのでしょう。

さて、そんなさ中わたくしが今日何よりも言いたいことはタイトルにあるとおりです。江戸文化歴史検定は何を考えているのか。

江戸文化歴史検定

いやね、江戸の文化・歴史を学ぶということは結構なことですよ。けど、「えどケーション」はないでしょっ!
なんのため、なんのための~江戸文化検定なんじゃいぃ~。江戸っつったらあ、かつて日本の首都ですわがらんびょ~。旧ぅ来のぉ日本ぬお伝統をー、はからずもさすぺんでぃっどに学ぶというのがぁ~趣旨ではないのか~。それをだねえ、えどケーションとはだねぇ~、それもとっぷぺいじに一番目立つきゃっちこぴいとしてだねぇ、これみよがしにはりつけるんではねえ、売国行為では、ないのくわあっあ~!

まあ、うまいのは認めるよ。エデュケーションと江戸の学習とかけるっていう言葉の国境を越えた見事な共有結合ね。

けれどもだねぇ~~、そこはひとつはっけんによる昂る感情を押し殺してだねぇ~、あくまでも我々は日本人のしとりとしていぇどのぶんくわを学ぶんだというぅねぇ~、気概だよね気概ぃ~。それがほしかったんでいぃっと。

・・・。いまいちキレんな。5月病かな。