‘食物庁’ カテゴリーのアーカイブ

寿司論其の三 序論「希少性と自我同一性」

2009 年 12 月 11 日 金曜日

食物担当大臣

どうもこんにちは。食物担当大臣の唐獅子マスヨです。
ただいま食べ物担当庁が総力を結集する「寿司論」講座を複数回に渡って展開中でございます。

寿司論其の一 序論「抽象度と汎用性」
寿司論其の二 序論「抽象度と汎用性2」

本日もまた前回の引き続き、食べ物の好き度を客観的にはじきだすためのアルゴリズム研究です。
今回は、「稀少性」と自我同一性がテーマとなります。
前回までのおさらいをさらっとやっておくと、食べ物の好き度は抽象度と汎用性に対して以下のような性質を持つということを述べました。

汎用性と抽象度

もしこれらの食べ物の主観的おいしさが同値であった場合、この図を見ると、具体的かつ汎用的なホットケーキミックスが一番好きなのだろうという推論がなりたちます。
この図から分かることは、「炭火焼肉が好き」と単に言っても、大したアピールにならないということです。なぜなら、炭火焼肉が現れる料理は炭火焼肉か、もしくは炭火焼肉コースくらいしかありえません(汎用性が低い)。一方ホットケーキミックスを使った食べ物はいろいろありますので、それだけ多くの食べ物が守備範囲内にあるということですから。

この点に着目して、議論は次の段階に進みます。
「柿ピー」と「ウェイパー(調味料)」の例で考えてみましょう。この2商品を汎用性で比較すると、柿ピーは柿ピーでしかありませんね。汎用性は著しく低いと言えるでしょう。対してウェイパーは何にでも使えておいしい調味料ですので、汎用性はトップクラスと言えるかもしれません。
勘の鋭い読者は察したかも分かりませんが、汎用性とはそもそもその食べ物が他の食べ物の中にどのくらいの割合で使われるか、その出現確率を示すものでした。ですが、私たちの普段の生活の中でそれぞれの食べ物に同じ確率で出会うわけではありません。
被験者が食べ物に出会う確率、つまり希少性を考えることが必要だということです。
ウェイパーはたしかに多くの料理から被リンクを受け取ることができるでしょう。しかし、ウェイパーはただでさえ高価ですし、私たちがウェイパーを使った料理を食べることは少ないのです。その点、柿ピーはもはや国民的おやつ、つまみの一つであり、私たちの口に、目にふれる確率は格段に高いのです。

汎用性と希少性

ですから、あくまでヒト目線で見るとするなら、ウェイパーや牡蠣は幅広くあみをはっているにも関わらず、それ自体の希少性が相対的に高いため現実に生活していてもあみにかからないのです。
これらの思考実験」から分かることは、希少性が高ければ高いほど、あみにひっかかる確率が格段に落ちるため、好き度は下がるということです。
どうしても現代のこどもたちは、キャビアやフォアグラの方が好き度が高いと思いがちです。
しかし、真実はそうではない。滅多に食べられないものをおいしいと感じるのはあたりまえなのです。そうではなくて、いつでも食べられるような、たとえば食パンにバターと砂糖を塗って、二年以上もおいしいおいしいと言って食べ続けた私の方が好き度が高いと言えるのです。
人間は飽きる生き物だということを肝に命じておく必要があります。最後まで飽きなかった食べ物が、あなたの好きな食べ物なのです!
これがフンボルト元事務総長が提唱した「希少性の相反原理」です。

さて、希少性を言及したならば、それは市場価値をぬきにして語れるものではないということが真っ先に分かることでしょう。実はこの市場価値なるものが、さらに次の段階、「自我同一性」に関する議論を巻き起こします。
詳しくはまた次回。

寿司論其の二 序論「抽象度と汎用性2」

2009 年 12 月 6 日 日曜日

食物担当大臣

はいどうもこんにちは。おともだち内閣食物担当大臣の唐獅子マスヨでございます。

寿司論其の一 序論「抽象度と汎用性」

や、前回から寿司論をひけらかしておるのですけど、今回もその続きです。まだ序論ですよ。
前回の宿題は覚えていますか?
その食べ物の汎用性が高ければ、好き度は高いのか低いのか。という問題でしたね。これは専門家の間でも議論が分かれると言いました。

ハムカツサンド大学のロールケーキ研究家、イッテルビウム博士は汎用性が高ければ、好き度は低くなると言いました。

イッテルビウム博士
イッテルビウム博士

食べ物の汎用性と抽象度というのは、性質が似通っています。私が担当しているクラスでは、多くの学生がこの違いを明確に区別できていません。これはたしかに混乱を与えかねないクラスタリングなのです。
どういうことかと言うと、「ファミレスのエビグラタン」→「グラタン」→「ホワイトソース」→「ミルク」のように汎用性が高くなると、同時に抽象的になるという現象が確かに起こるのです。

ですから、このような間違いを犯さないよう、次のように覚えておいてください。
抽象度は、その食べ物を一意に識別できるかどうかをあらわす指標
汎用性は、その食べ物がいかに汎用的に用いられるかをあらわす指標
こう考えれば、たとえばビタミンCの例もよく分かります。一見ビタミンCは抽象的だと言う人がいるかもしれませんが、確実に一つの意味を紡ぐことができるので、これは具体性が著しく高いということが分かると思います。

さて、私があえてこの間違い例を引き合いに出したのは、ここに重要なヒントが隠されているからです。
食べ物の汎用性と好き度は比例するか、という論争は長い間行われてきましたが、その答えの鍵がここにあります。
結論から言うと汎用性が高ければ好き度は低く、汎用性が低ければ好き度は高くなります。

抽象度が高ければ好き度は低いという結論は既に出ました。
そしてさらに、汎用性が高ければ抽象度が高くなるという現象が起こることをさっき紹介しました。
つまり、抽象度と汎用性は、好き度に対する性質が似ているのです。
つまり、汎用性が高ければ好き度は低くなるのです。

引用:「ロールケーキの渦に呑まれた天才科学者たち」(ヨハン・イッテルビウム著 / ケンタウロス出版)

イッテルビウム博士はこのように述べておられます。
しかし、賢明な読者のみなさんの中には気付いた方もおられるかもしれません、彼の主張には穴がぽっかりとあいています。
そう、彼は自ら、ビタミンCの例をあげて言っているではありませんか!抽象度と汎用性は、私たちの直感と異なる場合があるということを!ビタミンCは、汎用性はmaximumですが抽象度はminimumなのです。
ですので汎用性と抽象度の好き度に対する性質が同じという考え方は非常に危険です。

私の考えでは、汎用性が高ければ、好き度も高くなります。
たとえば、好きな食べ物「アミノ酸」と言ったやつがいるとします。アミノ酸は汎用性は高く(アミノ酸を含む食べ物は無数にある)、抽象度は低い(ただ一つに識別される)です。(汎用的かつ具体的)
これと比較して、好きな食べ物「ハーゲンダッツのラムレーズン」があるとします。ハーゲンダッツのラムレーズンは汎用性が低く(ほかの食べ物には決して現れない)、抽象度も低い(ただ一つに識別される)です。(限定的かつ具体的)
この2つはどちらも抽象度が低いですので、好き度について汎用性を中心に比較することができます。

私の直感では、ハーゲンダッツが総力をあげて、高級な食材をとりよせてつくっているのだから、「ハーゲンダッツのラムレーズン」がうまいのはあたりまえだ、と思います。対して、アミノ酸みたいな自然でどこにでもあるものに「おいしさ」を感じるということはよっぽど好きなのだろうと思えるのです。
この私の直感は、本質をついていました。
これはGoogleの創業者、ブリンとペイジが開発したページランクの考え方で説明することができます。

寿司のケース
まずこれは前回のおさらいですが、抽象度が高いと好き度が低いということの根拠を示しています。好きな食べ物が「全食べ物」では、好きも嫌いもありませんよね。こういう場合を考えて、抽象度が高いものは正規化する必要があります。その食べ物が内包する食べ物の母体数で主観的おいしさを除算する必要があるのです。
ですから、抽象度の高さは、好き度を下げるという役割しか果たしません。

茄子のケース
それでは汎用性が高いパターンを考えてみましょう。茄子の場合は、汎用的になるので、焼きナス・なす漬などの茄子を親にして生まれる子どもたちからの被リンクを受け取ることができます。茄子が好き、と言ってしまえば茄子を含む全ての食べ物からのサポートを受け取ることができる仕組みになっているのです。
ですから、汎用性が高ければ好き度も上がるのです。

これで十分すぎるほど、イッテルビウム派のあほぶりが分かったと思います。
彼の著作は信頼にあたりませんので、今すぐ焼却処分するのがよいでしょう。BOOK・OFFに売ったりしてはいけませんよ。
それを買った誰かがまた間違った知識を植えつけられることになりますからね。

それでは今回はこのへんで。次回も序論が続きます。「希少性と自我同一性」についてです。お楽しみに。

寿司論其の一 序論「抽象度と汎用性」

2009 年 12 月 1 日 火曜日

食物担当大臣

はいこんにちは。おともだち内閣食物担当大臣の唐獅子マスヨでございます。

今日は、ワタクシ唐獅子マスヨの根幹を担う思想「寿司論」を展開いたします。ついに・・・、このときがきた!
ちなみに言っておくと、ワタクシもちろん寿司を握ったことはないですし、高級料亭でいただいたこともないですし、庶民にも手が届くスーパーに売っているお寿司で大概満足できる人間です。ですが、ワタクシなりに寿司にかける情熱というものは人一倍強いものをもっております。

さて、ここ数年、いや数十年好きな食べ物ランキングダントツ1位をひた走っている寿司、でございますが、そもそも好きな食べ物とはどのようにして決まるのでしょうか。実は私ども食物庁が好きな食べ物ランキング算出アルゴリズムの研究をしています。素人が何も考えずに好きな食べ物に優劣をつけようとすると、不公平さを内包してしまう危険性があるのです。
まずは下図をご覧ください。

  1. 寿司
  2. 天ぷら
  3. うな重
  4. カレー
  5. キャラメルコーン
  6. おせち
  7. 牡蠣フライ
  8. サンドイッチ
  9. 唐獅子マスヨ好きな食べ物ランキング:2009/12/02現在

不公平さとは、何が言いたいのかと言うと、食べ物の好き具合を「おせち」と「キャラメルコーン」で比較するのはおかしいということです。これは、「野菜」と「コーンポタージュ」を比較しているようなものです。もっと言えば、「和食」と「ナポリタン」が同じ土俵でたたかっているのです。
これに関して言えば、ワタクシ小さいころ「青じその天ぷら」が好きな食べ物ランキング最上位だったころがありました。これを例にとって、歴史をまたいで暫定1位の「寿司」と比べてみると、もし仮に当時の「青じその天ぷら」の好き度と現在の「寿司」の好き度が拮抗するのであれば、「青じその天ぷら」の方がポイントが高いはずだと言うことができます。
なぜなら、ふつうの青じそはそこまで好きではないのに天ぷらにした途端食べ物界の頂点に君臨する、または、えびやその他の天ぷらにはそこまで興味を示さないのに青じそに関しては別格のうまさがある、といったところにヒトの好みへの秘密があると考えられるからです。青じそでかつ、天ぷらでなくてはいけないという確固たる主張。つまり、好きな食べ物を考えるときには、その食べ物の抽象度が問題となってくるのです。
昔ワタクシの友人に、「好きな食べ物・うまいもの」とプロフィールに書いているやつがおりました。こうなると元も子もないですね。「好きな食べ物・好きなもの」だってありえる。ですから、「うまいもの」と「メロンパンのかたい部分」というこたえ方では、後者の方がより熱意が大きいだろう、つまり具体的な方がより好きだろうという推論が成り立つわけです。言いかえれば、一義的に解釈できる名称の方が好き度が強いということです。
ですから、そう言った意味で寿司はあまりに抽象度が高すぎます。巻き寿司はどうなのか、ちらし寿司は、いなり寿司でもいいのか、という批判が当然噴出するでしょう。
ワタクシもこの問題に関しては十分認識していますし、常々これじゃあいけないなぁというふうに考えているのです。ですがそれでも、うんヶ月ぶりに寿司屋に足を運んだときの心の高揚、寿司と言う響きがワタクシのアニマに働きかける様子を感じていますと、ついつい好きな食べ物・寿司と抽象的にする誘惑に負けてしまうのであります。
寿司ネタにまで切り込んで、好きな食べ物ランキングを再構成することもできるのですが、そうするとベスト8なんて大半が寿司で埋め尽くされることになりかねません。こうなってしまうことがつまらないし、何もワタクシは寿司屋に行って、これが食べたいと明確にイメージしているわけではなく、寿司屋に行くこと自体が享楽になっているのです。
おっと、いくぶん言い訳的になってしまいました。

次に私たちが考えるべきことは、食材の数です。
たとえば、「茄子」と「海鮮ちゃんぽん」を比較してみましょう。これらはどちらともその名前を聞いて一意に食べ物をイメージすることができますので具体的だと言うことができます。
けれども、この2つの食べ物は性質が本質的に異なります。「茄子」は野菜そのものですが、「海鮮ちゃんぽん」だと、麺・スープのほか、キャベツ・あさり・えび・かまぼこ・ニンジンなどの様々な食材を必要とします。さらに、煮込む・炒める・ゆでるなどのコストがかかるのも特徴です。その点で、茄子の場合は非常にシンプルです。このようなケースで、茄子は海鮮ちゃんぽんよりもプリミティブであるとう言い方をします。
その食べ物がプリミティブであるためには、食材の数だけが問題になるわけではありません。たとえば、誰が作ったか、などの情報が加味されることがしばしばあります。
たとえば、「コーヒー」と「スタバのコーヒー」では、ふつうのコーヒーの方がプリミティブであると言えるのです。これは一見屁理屈な議論のように思えるかもしれませんが、どこで食べたか、誰と食べたか、いつ食べたか、などの情報は好きな食べ物をはかるうえで非常に重要な指標だと言えます。決してあなどってよいものではありません。
ですから、「おばあちゃんが作ったおしるこ」と「いちご大福」では単純比較ができないということになります。そこで優位差をつける仕組みが必要となります。
これはプリミティブ度ともよばれますが、一般的に汎用性という言い方をします。こちらの方が初心者にはわかりやすいのではないかと思います。汎用性、すなわち、いかにその食べ物を一般化できるかという指標です。

さて、ここで問題です。
汎用性が高ければ、その食べ物の好き度はより大きいと言えるか否か。
実は、この問題に関しては専門家の間でも議論が分かれるのです。

その答えについては次回をお楽しみに。

視力0.1のすすめ 後編

2009 年 10 月 21 日 水曜日

食物担当大臣

どうも、内閣府特命担当大臣、食物担当大臣の唐獅子マスヨです。
今日は前回からの続き「視力0.1のすすめ 後編」でございます。

前回私は目が悪いということもいけないことばかりではないということを申し上げました。赤瀬川原平氏の「老人力」など紹介させていただきましたが、こういった心構えが私には非常に興味深く感じられます。
そして、視力が悪いということにおける最大のメリットは、覚醒しながらにして超現実を垣間見ることができることなんだということをほのめかし、前編を終了とさせていただきましたね。
本後編では、その超現実について言及して参ります。

視力がアラ0.1くらいのレベルに達しますと世の中には大抵フィルタがかかっていて、常にピンボケ祭りです。すると、遠くにあるものは一体なんなのか分かりません。
何やら何だか分からないものが見えると人間は、ピンボケしたごく少ない情報を頼りに自分の経験データベースに必死こいて検索をかけ、その物の正体を解明しようとします。
しかしですね、人間生まれたときはずっと目がいいですし、小さいころに目が悪くなったという人も大体めがねをかけますから、くっきりした世界を見ているんですよね。そういった環境で育っているから、視覚情報のデータが少なすぎるとデータベースから検索しきれないときがよくあるんですよ。
そうなるとどうなるか。
視覚心理学という研究分野はなかなかおもしろい研究を頻発していますけど、それらからも分かるように眼球というデバイスで処理しきれなかった部分は脳が大いに情報補完をするわけです。

盲点 -wikipedia
つぎはぎだらけの脳の心 -池田信夫blog

視覚情報を脳がカバーするという研究報告はこのほかにも枚挙にいとまがありません。
この現象が非常におもしろい。
経験データベースからあぶれた得体の知れない物体は、意味不明な物体としてそこにあり続けるわけではなく、何かしら脳によって補完、すなわち意味付けが行われるのです。
この脳のおせっかい機能がまれに極上の超現実を生み出します。

たとえば。
こないだ部屋でくつろいでいましたら、パッと見、カーテンのところに何やら黒い物体を見つけたのです。私はその瞬間どきっとしました。
なぜなら私は瞬時にその黒が何か分かったからです。
監視カメラだったのです。
自分の部屋になぜか監視カメラがとりつけられている・・・。一体誰が・・・。私こんな職業に就いておりますし、いろんな想像を巡らしました。
けれど近づいてみると、その黒がただのハンガーだったことに気付きました。

たとえば。
こないだ颯爽と自転車で街を走行しておりましてね、とある四つ角を左折した瞬間事件は起きました。
目の前のおばちゃんが、おばちゃんがですよ?私とそんなに歳もかわらないであろうおばちゃんが、天空に向かって銃をぶっ放しているのですよ。
腰抜かしますよね。誰だって。
でも、すぐに真相はわかったのです。おばちゃんはハンドバッグを頭の辺りにかざして日よけにしていたのです。

たとえば。
私はこれには本当にびっくりしたんですが、駅前の公園を歩いていてふと視線を感じたのでそちらの方に目をやると、チュウバッカがこちらを睨みつけていたのです・・・!

チュウバッカ
チューバッカ -wikipedia

あの一瞬私の脳に映ったのはまぎれもなくチューバッカでした。目が煌々としていて、「とられる・・・。」と思いましたね。
でも、本当はチューバッカなんていなくて、

ギャル

こんなかんじのただのギャルだったんですよね。しかも全然こっち見てもいなくて。

これらの現象のおもしろいのは、極自然に日常を暮らしていて、極自然な秩序の中に暮らしていて、あるとき不意に訪れる不秩序と出会うということです。
シュルレアレスム派の絵画にはどうもそういった要素がないのです。彼らの作品にあるのは、ちぐはぐさの中のちぐはぐさ。
私たちが見る「夢」も終始ちぐはぐしていることが多いですが、まれにとてもリアルな夢を見ることがあります。リアルなんだけど、何かおかしいといったような。
これがおもしろい。
私は日常の中に突如現れる不可思議こそが超現実の真骨頂だと思うのです。

視力が悪い=不幸だと信じて疑わなかったあなたは、こんなエキサイティングな毎日をおくっているでしょうか。
たまには視力0.1も悪くないということがおわかりいただけたかと思います。
これを応用すれば、たとえ失明しても世の中は楽しくなりえます。まだ耳、口、肌という感覚器が残っていれば。
私たち美食家はそうならんがための修行を怠ってはならないのです。

視力0.1のすすめ 前編

2009 年 10 月 20 日 火曜日

食物担当大臣

食物担当大臣の唐獅子マスヨです。
本日は食べ物に直接関係のございませんトピックでございますが、本物の美食家が世界をどう視るかということを力説して参りたいと思います。

さて、本日申し上げたいことは、「視力0.1のすすめ」ということです。
我々は特に意識することなく、視力がいい方が「幸せ」だとおもっています。それだけではなく、五体満足の方が「幸せ」、耳は聴こえた方が「幸せ」、病気でない方が「幸せ」・・・という具合に。
まあ、そういう風潮があることは事実です。
こういった感情はいたしかたないものかもしれません。
けれど、デバイスとしての”私”が劣化することを受け入れた者というのは、ある意味で本物の美食家と通ずるところがあり、また、彼らは人生において勝者であると私は思うわけです。

赤瀬川原平さんは、類稀なる感性で実におもしろいご指摘をされています。

赤瀬川原平 -wikipedia

彼とその一味は、「老人力」という著作で、老人力という概念を提示しました。


友人とか仲間どうしの場合、共通の知識を共通に忘れかけていることがよくある。何かのたとえ話をしようとしていてある人物の名前が思い出せず、
「えーと、ほら、あの、あれに出てた・・・・・・」
「そうそう、あれでしょ。あの、ほら、あれ・・・・・・」
とお互いに忘れてしまっている。でもちゃんと「あれ」だというのはお互いにわかっているのだ。

あるとき、相手は南伸坊君だったが、やはりそんなことを何度も繰り返していて、南君の方がつい、
「おっしゃることはわかります」
と言ったので大笑いした。

こういうのをぼくらでは「老人力がついてきた」という。

引用:老人力(筑摩書房)

老人力・・・。
赤瀬川氏は、富を増やそうだとか、豊かさを得ようだとか、平和を目指そうだとか、そういうことに言及するタイプの論者ではありません。
でもなぜでしょう。私だけでしょうか。彼の言うことには溢れんばかりの光が差し込んでいるように思うんです。
彼のような人間を見習っていきたいですね。

さてと、私実は視力が悪うございまして、ほとんど見えてないのにめがねもコンタクトもかけないというありさまでございます。
でも、目がほとんど見えてない生活も捨てたもんじゃないよということを訴えてまいりますね。

まず、これは序の口ですが、通りすがる男どもが全て美男子に見えます。相当近づかないかぎり50代と20代の区別もつきません。さすがにはげちらかしているかどうかは分かりますけどね。

ここからが本番なんですが、私あるとき、スーパーでお買いものしておりましたらね、尋常じゃなく興味を注がれた商品を見つけたのでございます。
その商品名は、「しりとりクッキー」
しりとりとはあの言葉尻をつかまえて、相手を批判しまくる王道ゲームのことかしら。あの国民的ゲームとクッキーをコラボさせるなんて一体どんなセンスをしていらっしゃるのかしら。
と、取り乱したのでございます。
そしたら、よく見ると、「しりとりクッキー」じゃのうて「しっとりクッキー」だったんですね。ただの「しっとりクッキー」だったんです。
けれども私はがっかりしませんよ。だって、私がお菓子会社の社員でしたら、即「しりとりクッキー」という商品名の企画書を書くはずですからね。
これは言わば、一瞬他人のアイデアかと思ったらそうではなかったっていう、この上ないラッキーなんですよ。しめたものなんでございます。
まあ世の中ぼかしを入れることで、見えてくる情報ってあるもんなんですよね。

私は、視力0.1の真骨頂はこれにとどまらないとふんでおります。
視力0.1はときたま私たちに超現実を見せてくれるのです・・・。

最近、閣僚のお話が長いと非難されますが、これまた次回に持ち越しです。ごきげんよう。

ベトナム料理から学ぶ日本の反省

2009 年 9 月 6 日 日曜日

食物担当大臣

はじめまして。このたび内閣府食物庁の新設につきまして、食物担当大臣を仰せつかりました唐獅子マスヨでございます。

「あそこの店はおいしいよ、あそこはまずいよ。」
このようにですね、食べ物を一元的に、しかも極めて安直な主観で捉えるにすぎない者たちがどういうわけかグルメと呼ばれる昨今でございます。少しでも多くの店で食事をして、それらに「うまい」か「まずい」かのフラグを立てていくのがグルメの仕事ですか?彼らは何を勘違いしているのですか?
この食物庁は、このような大問題を起点に設立にこぎつけました。本物の美食家とは何たるか、私どもがお教えいたしましょう。

ワタクシ、かのような使命を負った食物担当大臣でございますけれど、このあいだはじめてベトナム料理をいただきました。世界的に人気のあるベトナム料理のことですので、何を今さらってことになるんでしょうけれど、閣内一の美食家がベトナム料理をどう食したか述べさせていただきます。

ワタクシがいただきましたのは、フォーとチキンカレーでございます。
まずはカレーについて申し上げておきたい・・・!ワタクシいわゆるジャパニーズカレーとよばれる市販のルーからつくるカレーしか食べたことがありませんでした。ココナッツカレーというジャンルのカレーを食べたのはもちろんはじめてでございました。
私たちは、うしろから突然「わっ」とおどかされるとびっくりします。そのほか、心霊スポットで目の前に青白い人の顔が浮かびあがったらこれまたびっくりします。見知らぬ人から急に肩をがしっとつかまれてもびっくりしますでしょう。
つまり私たちは、五感のうち視覚・聴覚・触覚においてはそれらの入力からびっくりすることがあるのです。しかし、嗅覚と味覚においてはびっくりするという感覚はあまりありません。大抵これらのものはじわじわと刺激になって現れてくるものです。
それなのに、ココナッツのカレーは口に運ぶたびに何かに小突かれたかのような衝撃を食らい、それが食べ終わるまで続くのです。要するに文字通りびっくりするほど美味なんでございます。
ココナッツカレーはコクがあって深みがあって、まろやかさに酔いしれてしまいます。けれどもこれが醸し出す味の深みというのは「囲碁」の与える思考の深みとは幾分異なります。つまりココナッツカレーは、舌でとろけるまろやかさにビッグバン理論でいうところの原始宇宙スープのような複雑怪奇な構造に思いを馳せるのですが、しかしその味は私たちにも捕獲可能なごく簡単な法則性のあるものだということです。私たちはこのような複雑性MAXのスープの中からひょこっと顔を出す単純な法則に心底のめりこんでいくのです。
このカレーのまろやかさに間違いなく一役かっているのがチキンであります。チキンカレーというのがポイントなんですね。この水準のコクはビーフやポークでは到底出るはずもない。ココナッツとスパイスとチキンの境界線が見事に取り払われているのです。まさに融合。ボーダレスグルメ革命とはこのことです。
日本人は無意識に牛→豚→鶏という順番で根拠のない優劣をつけています。しかし、その肉を得るためにどれだけのコストがかかったかということがその肉自体の評価になるわけがないでしょう。優劣がつくとしたらそれは、肉を構成するたんぱく質の超絶バランス感覚と脂肪のキメ細やかさであり、さらに言えばそれらが調理するにあたって他の食材とどう絡みあっていくかという所にしかないはずです。
ですから、日本人はビーフカレー、ポークカレーならまだしもカツカレーやエビフライカレーのような代物に食いつく習性を少し反省しなければならないでしょう。時代はグルメボーダレスなんですよ。
けれども日本人は本来そういったバランス感覚を備えた民族でした。この国から続々と生まれた料理には、筆舌に尽くしがたい趣があります。それについてはまたのちのち言うとして、数千年に渡って日本人に受け継がれた遺伝子がささやく食に対する感覚に耳をかたむけるべきでしょう。それを素直に受け止めて「カレーにはチキン」という選択をすべきなのです。

長くなりましたが、最後に少しフォーについても言っておきたいことがあります。
フォーは基本的に日本人にも好まれる食べ物だと思います。けれど、賛否が分かれそうなのは香草に対する評価です。
フォーを食べているとしばしば気がつくのが、香り高く癖のある香草の存在です。彼らが妙に主張してくるのです。これが嫌だと言う人が日本には多いのではないかと私は率直に思いました。日本人は元々人見知りする民族ですしね。
本当のところ私もこの香草がおいしいと思えなかった。これがなかったらいいんじゃないかという考えが脳裏をよぎりました。しかし、うまくなければ嫌いかというとそうでもない、ということを声高に申し上げておきます。どういうことかと言うと、私はフォーを食するたびにこの香草にぶちあたります。そして「おいしくない」とたしかに思います。けれどもそれと同時に私は、ベトナムの野原の姿をありありとイメージするのです。香草というのは、その国の匂いを代表する存在です。私が子供のころはそこらじゅうに花や草木が生い茂って、蓮華草の鮮やかな色彩や野原の匂いを体感していました。その経験を基にして、香草を通じてベトナムを想像できる。
この香りが鼻につく香草こそが日本にいながらにして、ベトナムへの小旅行を体感できるパイプ役を担っているのです。

美食家というのは、一口食べればビッグバンに思いを馳せ、ベトナムに小旅行に行ける、そういう者たちのことを言うのです。うまいかまずいかはそんなに関係がありません。むしろあなたたちはその食べ物に不満しかいだけなかったご自分の狭い心を反省すべきなのです。

参考:PHONAM