
みなさんはじめまして。外務大臣の「烏丸・ランドレス・薪道」と申します。
本日は、いきなり本題に入りますが、藤沢数希殿のような方がしきりにうったえておられるグローバリズムについて物申したいことがありおりはべり、参りました次第でございます。
藤沢殿は、一般市民から見るとまぎれもなく「天才肌」とよばれる部類に入りましょうか。
このような、能力があってあってしようがないという方たちにとっては、この世の中はとにかく住みにくい。既得権益にすがって真っ向から勝負してこない輩、嫉妬渦巻く意地汚い世間・・・。
社会に莫大なる恩恵をもたらしているにもかかわらず、彼らに対する真っ当な評価がなされない、特に日本では。
天才肌タイプの方々はやはりある種の解放のようなものを欲しておられるように思います。そして世の中の理不尽さをひとつひとつ潰してゆき、理想の社会を作ろうと。フェアな社会をと。
そのような考えを前提にするならば、やはりグローバリゼーション、開かれた市場、競争社会という発想に向かっていきます。
けれども、わたくしの考えでは、なかなかどうしてそのような方法では一般庶民の幸福は得られないのではないかと思うわけです。
というのも、合理的な社会というのは大都市のように隅々まで徹底管理された社会であり、そこには弱者にとっての居場所がないからです。
「おめえなに中だよ?」
というやりとりがしばしば中学生の不良の間でなされます。これは激動の思春期時代疾走中の中坊が、同じ中学=仲間意識、違う中学=敵対視、と無理矢理に敵対関係を創出することで居場所を確保しているのだと考えられます。
言うまでもなく理不尽極まりないクラスタリングですが、敵を作るという作業は所属の欲求を満たすという意味で、あなどれない部分もあるかと思うのです。これによって、才能の有無にかかわらず、○○中××族構成員というポジションを与えられる・・・。
社会の合理化が進むと、圧倒的にこの類の集団形成は少なくなります。大都市に存在するコミュニケーションは、ゲーム理論で語られるような経済的観点によってのみ支えられるコミュニケーションばかりになってくるのです。当然そうなるならば、業績をあげることができない非才な市民は居場所がなくなる(コミュニケーション対象として見なされない)ということです。さらに言えば、IT化がムーアの法則に基づいて阿呆みたいに急進すると、オートメーション化も急進するわけで、はじき出される人間というのも急増するのでしょう。
ネットカフェ難民なんて社会現象が取り沙汰されていますが、居場所がない、帰る場所がない人々の苦しみは想像を絶するものだと思います。それは体験した者でないと分からない。
ネットカフェやマクドナルドのようにコーヒー一杯で夜通し居場所を提供してくれるというサービスが資本主義の中から生まれるということはありえましょうが、根本的な解決にはなりません。
とは言え、そんな単純なことではないのかもしれません。新たな価値を見つけて新世界を生きていくスタイルができるかも分かりませんし。そうではあるんですが、つまり私が申し上げたいのは、藤沢殿のように大きな影響力を持った方が、”単純に”グローバリゼーションで世の中は幸福になると言っていただきたくないのです。
結局それは、あなたが住みよい社会像なだけじゃないかと。
最後に。
だいぶ昔の話になりますが、尾田栄一郎殿の超傑作「ワンピース」を引用し、そこで登場するキャラクター「うそつきノーランド」の犯した甚大なる罪について、いちゃもんつけたいと思います。
ノーランドの罪を端的に申し上げるならば、神殺しを行ったことです。それが一番の問題であります。
けれども、シャンディアの村は疫病が蔓延しており、ワクチンによって村を救ったノーランドは救世主であり、実際に村人からも歓迎され、万事よしのように原作では描かれています。
けれども本当に全てうまくいったのでしょうか?わたくしはそこに疑問を抱かざるをえません。
シャンディアの村は疫病によって壊滅的な打撃を受けており、村人は生贄によってその厄災を鎮めようとしました。
本来、このような大いなる自然災害、病、死から逃れるために文化・芸術といったものは発展してきたはずです。ましてや由緒伝統あるシャンディアの一族ですから、この際伝統を重んじて生贄えを捧げるという行為は彼らからすれば当然のことなのです。
もちろん理不尽極まりないことではありますよ。生贄に捧げられる身からすれば。
こんなこと言ったら人権団体に目ん玉ひんむいて叱られそうですが。
けれども、「神の存在を信じ」、「その象徴が大蛇であり」、「その神に誠意を見せることで難を逃れられる」という思考様式こそが一族の文化・アイデンティティであったはずです。「その難を逃れるために科学を用いる」という文化と、そもそも優劣をつけられるものなのでしょうか?
シャンディアの村は結果的にはノーランドを歓迎し、科学・合理性というものを受け入れました。
それは別におかしいことではありません。目の前の死の恐怖から逃れるために合理的な道を選んだだけの話ですから。
けれども、それだけ科学などの普遍的価値の力は強いということです。あのシャンディアがですよ?あの伝統でがんじがらめのシャンディアでさえも普遍的価値の甘い罠にあらがえなかったということです。
それで平和的な解決になったじゃないかと思われる方もおられるでしょう。たしかに、最終的に疫病に対してワクチンを用いるという決断はシャンディアが自ら下しました。
けれどもそれによって失ったものはでかい。彼らは自らの存在意義としての、うん百年の歴史ある伝統をあの一瞬で失ったのです。そのあとどうなるかは推して知るべし。
医療分野には科学を導入するでしょうし、そのために貿易をするでしょう。そうなればあとはどんどんグローバリズムの波が押し寄せて、我々と何ら変わることのない平凡な一市民になるのを待つだけなのです。その後、厳しい情勢にでもなれば居場所を求めて彷徨い、果てにはシャンディアの中にも自殺する者が現れる時代になるかもしれません。
それは神の存在を全否定され、依拠するところがなくなったからなのです。
だから、先進国というのはグローバリズムという発想についてもっと慎重にならなければなりません。仮に科学が普遍的なものだとしても、それによって民族が幸福になるのか、真剣に考えなければならないと、その責任があると思うのです。
生き死によりも重要な価値があると、わたくし個人的には思いますが、それは人それぞれ違います。それが自分でない他人にとって、他民族にとって何なのか・・・、そんな認識が重要なのだと言いたかったのです。