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年賀状を出さない企業方針に喝

2010 年 1 月 3 日 日曜日

総務大臣

新年あけましておめでとうございます。
新年明けて早々、暗黒ブログおともだち内閣へようこそ。総務大臣の歌川つめたろうです。

お正月と言えば、年賀状ですよね。最近正月には年賀状を出すという文化がだんだんなくなっているのだそうです。
メールにとってかわったりとかしてね。
聞いたところによると、最近は企業がもう、年賀状を社内の人間にかくってゆうのを禁止してたりもするのだとか。

気持ちはすごく分かります。めんどくさくてしようがないですね、年賀状ってのは。知り合いとか多い人なんかは地獄かもしれませんよね。
私は、年賀状をメールで済ませるとか、そもそも禁止にするとか、そういう風潮に理解があるつもりでいます。
けれどもけれども、一言言っておかねばならんだろうということがあるので、お時間の方よろしければ最後までご覧になってください。

まずは年賀状メールについて。
私は基本的に年賀状を紙かデジタルデータかで優劣つける意味はあまりないと思っているんですけど、メーリングリストとかで一斉送信されるメールがありますよね。あれのうれしくなさが半端じゃないんですよねぇ。うれしくなさすぎるんです・・・。し~ん。
紙でもらった年賀状は超適当なものでもうれしいんですよ。なんで一斉送信メールだとだめかっていうと、相手の頭の中に自分がいることを想像できないからです。リストの中にいる全員にあてた内容であれば、その人ならではの感謝の気持ちとか表せるはずもないですよね。
ですから、満足してるのかしてないのか知らないけれどもこういうことで済ませてる人に私が代表して言いますね。
一斉送信で年賀状メール送っても、うれしくないですよ。何のための年賀状かもう一度考えましょうね。

次は、企業が年賀状を禁止するっていう風潮に関してです。
本当に気持ちは分かります。忙しいですからね。せっかくの休みがなくなるかもしれません。
むしろ、社内の人間に年賀状をくそまじめに出したりする人はやるべきことが分かってない人なのかもしれません。
そういう大変さはわかるから、私が言いたいのは「年賀状を出せ」ということではありません。
年賀状出すのが大変だという人が自らの態度を肯定できるような仕組みを作ってしまうことが問題です。
意味分かりませんね。
「わずらわしいから年賀状出さない」という人は、年賀状を出さなかった、返さなかった罪悪感を抱かなくてもいいという仕組みが問題なのです。
お世話になった人に年賀状を出さないということは、ある意味失礼なことでしょう。その無礼さを開き直れるような口実を作ってるわけですね、企業が禁止するということは。それがだめだって言ってるんです。

意味ない文化を消してしまえば、企業としては生産性が上がるでしょう。
でも、なんか・・・、なんかつまんないですね。

人は死ぬから、心が豊か 其の六

2009 年 8 月 23 日 日曜日

総務大臣

「おいけのまわりにお花がさいたよ」
おともだち内閣総務大臣の歌川つめたろうでございます。おともだち内閣が無償で提供しております、私どもの根本的思想をみなさまに提供する怪しいセミナー「人は死ぬから、心が豊か」を分割開催しております。本日はいよいよ最終日となりました。
今までの講義内容は、以下にございます。
人は死ぬから、心が豊か 其の一
人は死ぬから、心が豊か 其の二
人は死ぬから、心が豊か 其の三
人は死ぬから、心が豊か 其の四
人は死ぬから、心が豊か 其の五

普遍的宇宙や真実など絶対的なものを揺るがして、主観的世界が全てだということを言ってきました。神様は自らの脳に坐していると。
そして、前々回四回目の講義の最後で、「自分を見つめているとある重大なことに気がつく」と言いました。
これについて説明して、私どもの主張を完結させたいと思います。

幸福になること。
これが私たちの目標です。ですが、もちろん普遍的な幸福などなく、人それぞれ幸福の考えが違います。ゆえに幸福実現のための手段も違います。
ではこの問題にどう取り組めばいいのでしょうか。
当然のごとく演繹法ではありえません。帰納法によってのみ、私たちは幸福への道筋を手にするのです。
帰納法とは、「世の中」を観察し、経験的に法則を見出す推論の手法です。脳が全て、主観的世界が全てだということは、この場合の「世の中」とは、自分のことです。ですから、自分を観察することが生きる上でのヒントとなりうるのです。自分を見つめるとはそういう意味です。
というわけでして、ここからは、あくまで私がどんなときに幸せだったか、ということを足がかりに幸福論を展開します。あくまで私の場合の幸福論ですが、みなさま大いに参考にして下さい。

The Beatles以外の曲を全く聞かなかったという時期が2年ほどありました。
私がどうしようもない中坊だった時代、友達から誘われてはじめて県内の繁華街に遊びに行ったのです。内心びくびくしながら、ださい格好で、街に繰り出しました。そのときは怖くてほとんど何も買えなかったのですが、唯一買って帰ってきたものが、生まれて初めて自分のお小遣いで買ったアルバム「ラバーソウル」でした。
ラバーソウルのジャケットを見ると、当時の自分がコンプレックスの塊だったこと、目立ちたがり屋だったけど目をつけられたくもなくてこわい同級生や先輩の顔色をうかがっていた学生時代を思い出すんですねぇ。
サージェントペーパーのジャケットを見るなら、父親がそのジャケットについてやA Day in the Lifeの最後の部分を説明して聞かせていたことを思い出すんですねぇ。さらには、黒くてでかいCDプレーヤーとか、実家の自分の部屋とか、自分の部屋の足ざわりの気持ち悪いじゅうたんのこととか、思い出すんですねぇ。
中学を卒業するころ、私はジョンレノンのアルバム「イマジン」を聞いていました。
中でも印象的だった「Oh My Love」を聞くと、今でも中学卒業から高校入学という生活が激変したときのことを思い出します。中学校の卒業アルバムを見ながら、高校では友達の悪口を言うのをやめようと決意したこと、はじめて新しい通学路を通ったときのこと、そのときつけていっていたワックスの匂いとか。芋づる式になんもかんも思い出すんです。

決して音楽を聞くことが幸せなのではありません。
その時代の自分にとって強烈な存在だったものが、強烈な記憶として、その周辺の諸記憶と共に、今の自分へと引き連れてくる。それを感じることが幸せなんです。
簡単に言えば、「懐かしい」と思えることが私の至福です。思い出すという行為は、なんだか不思議なかんじがします。

私は小さいころ頻繁に怖い夢を見ていました。
その恐怖は夢の中だけで終わらなくて、布団をかぶって電気を消すと、強盗が家に押し入って家族みんなを殺してしまうんではないかと思っていました。
けれども、大きくなって、経験的にそんな事件は滅多に起こらないし、そんな高確率で人は死なないんだということを知るようになりました。そしてあまり怖い夢を見なくなりました。
これは成長であると言えます。
しかし私は、いつも不安でしかたなかった、母親の帰りが少し遅いともう殺されたんではないかと想像した、そんな昔の自分がなつかしくていとおしくてしようがないんですねぇ。あのころの自分をなつかしいと思えるのは、私が成長したからです。

この教訓から私が学びたいことは2つあります。
一つは、「なつかしい」と思わせる記憶というのは、その当時は案外何気なかったり、漠然と不満に思っていたことだったり、苦しかったことだったりするのです。何も嬉しかったことや、楽しかった思い出だけが人間を構成しているわけではないということです。
もう一つは、環境なり思想なりが、変わらなければなつかしいと思わないということです。これはとても重要なことです。

人間は一体何に感動するのか。
分かりやすい例を一つ提示します。
芸術作品を鑑賞しながら、ぽろぽろと泣き出す不可解な人間がいますよね。私は最近彼らが何に感動しているのか分かる気がするのです。私はタージマハルに行ってみたいので、その例で考えてみましょう。
タージマハルのような美しいものを見ると、大半の人が「すごい。」とか「きれい。」とか思うでしょう。けれども、涙をぽろぽろ流す人ってね、そういう大半の人とはちょっと違った化学反応が脳内で起こっているんだと思います。その化学反応を説明しましょう。

タージマハルに行きたいと思っている男がいました。彼は、タージマハルについて勉強し、やがてその思いはどんどん強くなり、いてもたってもいられなくなり、はじめての独り旅を決行することにしました。はじめて行ったインドでは、言葉も分からず、食事も文化もまったく異なり、頼れる人もなく、不安とストレスで精神的にまいってしまいました。ただ、タージマハルに行きたいという思いだけが彼の心の支えとなり、次第にタージマハルへの思いは独り歩きしてゆくことになるのでした。その苦難の末タージマハルに辿りついたとき、彼はそれまでの全てを思い出すのです。タージマハルへの思いと不安、そして安堵。これらが脳内で交錯し、彼は泣くのです。

もちろん人それぞれ感じ方は違います。けれど、心が豊かな人は、これらの芸術作品に感化されて、ふと何かを思い出すのだろうと思います。私が言いたいのは、何かを思い出すためには、思い出す何かがなければいけないし、脳が感動的になるシチュエーションをつくってやらないといけないということです。このシチュエーションは人間にとって辛い経験であったりするのです。
タージマハルが美しい建築だからと言って、こういうものをもっと高画質で見れるように、もっと高精細なCGで見れるように、とする動きが現在の科学技術にはあります。断言しますが、高画質の大画面で見ようが、高精細CGで見ようが、そんなものに誰も感動はしません。せいぜい、「すごい。」とか「きれい。」と思うくらいです。
わざわざインドまで行って、不安でいっぱいの中で旅をして到達する。このプロセスをふんでこその感動なんですよ。
メディアの高精細化が起こることは大変結構なことですが、それらが人間に感動を与えるものだと勘違いしてしまうと、非常に空虚な人生をおくることになる危険性があります。

昔のことを思い出すということ、記憶を辿るということは、プロセスなしでは成立しないことです。私たちが生きてきた過程がなければならないのです。その過程が強烈なものであればあるほど、その記憶は未来のあなたにその時代の記憶を伝えてくれるのです。
自分の脳に直接英単語5000語をインストールすることと、英単語帳で5000語必死に覚えることと、どちらが生きた証として記憶に残るか考えてみればいいでしょう。
ですから、私たちは未来の自分がなつかしいと思えるように、「布石」を打っておくのです。そうやって生きていく。そうやって布石を打っていれば、自分の脳にも変化があります。その変化はより一層過去の自分をなつかしいと思わせるものです。

「なつかしい」という感情がここまで神秘的な理由は、「不可逆的」という性格に基づいています。
昔はこうだった、でも今は違う、さらにあの頃には戻れない、という流れが「なつかしい」という思いを神々しくさせています。
前回の第五回で、人間が無意識に感じている死への恐怖について述べましたが、つまりこの「不可逆的な一連の流れ」の行き着く先には死があり、私たちは無意識にそれを知るのです。これが「なつかしさ」の放つ神々しさの秘密です。
要するに、人は死ぬから心が豊かなんですよね。

まとめますと、この世界は変化があって終わりがある。人間はこういった永遠でない世界に対していろいろ思うことがあるのです。なつかしいという感覚はそれを物語っているように思います。そして、この感覚が心の豊かさの正体ではないか。
ですから、私たちは未来の自分のために布石を打っておくことが大事なのです。役職とか知識とかお金とかは布石となりえません。それらを得るためにあなたが生きてきた過程こそが、布石となりうるのです。
けれども、この世の中は布石になりにくい物があふれています。
私ども内閣の閣僚も申しておることですが、旅行の推薦、ネット献金、覚醒剤に核爆弾・・・。ある目標に対してのわずらわしいプロセスを一切排除してしまおうという性格を持つものに対して、私どもはNOと言います。
結局こういう社会が善とか、普遍的なものはないと何度も言いました。それならば、人類が平和になるための過程をもっと楽しもうよ。
そういう発想ができるおもしろい人がこの世に必要なのではないでしょうか。

このような視点で世の中を捉える立場を「思い出主義」とよぶことにします。
私は、政治的立場としてはおそらく世界初の「思い出主義者」です。
どういう生き方をすればより記憶に残るか、どういうときに人は何かを思い出すのか、これらをもっと真剣に研究して参ります。まだまだ走りがけのイデオロギーです。みなさまの意見をちょうだいしたいと思います。
私の思い出主義提唱に特に影響を与えた人物・学問を紹介します。
量子力学、エドガー・アラン・ポー(小説家)、太田光(お笑い芸人)、三島由紀夫(小説家)、外山恒一(革命家)、児玉徹(九州大学准教授)

最後に。
死ぬということは悲しいことです。けれども、悲しいということは悪いことではありません。
終わりがあるという悲しみがあるからこそ、この世が美しかったり、感動的であったりするのです。

人は死ぬから、心が豊か 其の五

2009 年 8 月 21 日 金曜日

総務大臣

「おいけのまわりにお花がさいたよ」
おともだち内閣総務大臣の歌川つめたろうです!はっけよいのこった!
「人は死ぬから、心が豊か」を複数回に分けて、シリーズものでお届けしております。
前回までの内容はこちらでご参照ください。
人は死ぬから、心が豊か 其の一
人は死ぬから、心が豊か 其の二
人は死ぬから、心が豊か 其の三
人は死ぬから、心が豊か 其の四

唐突ですが、あなたの好きな動物は何ですか?
ふむふむ。あなたの好きな動物には別に興味ありませんが、私の好きな動物は人間です。
・・・。

さて、前回までで神様は主観的世界に存在すると言いました。これはつまり、脳の中で起こることがこの世の全てだということです。
脳があれば何もいらないというわけではありません。脳みそは単にシステムですので、入出力インターフェースがないと稼働しないし、入力を与えるための世界がなければいけません。しかし、その世界には普遍的な真善美など存在しないのです。
そのものを真とするか、善とするか、美とするか、それらは全てあなたの脳が判断することなんです。

それでは、脳の化学反応が終焉を迎えたとき、人間はどうなるのでしょうか?
自然に考えるなら、それは無です。全てがパー。何も残らないし、何も受け継がない。
死ねばどうなるのか「わからない。」というこたえ方もできるでしょうが、しかし、脳が全てだと言ってしまえば、脳が死んだとき無が訪れるでしょう。
実はこれは、クオリアの正体をはかりかねている推論です。脳を単に物質として捉えている。
ですから、結論から言えば、死ねばどうなるのか「わからない。」がそれっぽいのですが、けれども私には死んでもなお何かが残ると到底思えないのです。なので「死ねば無」を強調します。少なくとも死者はこの世に還ってこれない。

普遍的な神様の存在を半分否定し、絶対的な存在としての宇宙を半分否定し、さらに私は死後の世界をほとんど否定しました。
ということは・・・、私たちがこの世に生を受けた使命とか運命とかいうものがあるでしょうか?
それは、もうおわかりいただけると思いますが、生命の使命・運命のようなものは、あるかないか「わからない。」がこたえです。
自分は結婚できない運命だったんだとか、自分は世界から貧困をなくす使命を負って生まれてきたとか考える人たちがいますけど、あとからならどんな解釈もできますよ。何だって言える。けれど、何をそんな空っぽなこと言ってんだろって思いますね。
真実として言えるのは、この人と一緒にいると無意識に拳握ってるとか、貧しい人々を救うことでとてつもない充足感を得られるとか、そういう感情があるということです。主観的真実だけなら私たちの中に間違いなくあるんです。

「私がこの世に生まれてきたのは必然ではない。」→「生まれてきた意味がない。」→「生きてる意味がない。」→「じゃあ死ぬ。」
こういう論理的思考をする人が私は大嫌いです。
冒頭でカミングアウトしちゃいましたが、私はなぜ人間が好きなのか。それは、大抵の人間はこういう論理的思考をしないからです。

私には、たまらなく人間が好きになる瞬間が何度かあります。
「道路沿いに据え置かれた花束」を見たときがその一つです。この花束はおそらく、交通事故死者にたむけられたものです。
「死ねば無」ならですね、こんな花束置いたって意味ないですよ。邪魔なだけですよ。
冷静に考えればね、この花束によって本気で本気であの世で事故死者が救われるとかありえないですよ。
じゃあ、なんでこの人は花束をおいていったんでしょう?
それはやっぱり、自分が安心したいんです。
私たちはとにかく、気の毒でしようがないから、花でもたむけなくてはこっちの心が鎮まらないから、そうしたのです。
花をたむけることであの世で事故死者が救われる、と考えることによってこっちの心が楽になるから、そうしたのです。
彼らは、死に対しての震撼するほどの恐怖と悲しみを目の前にして、冷静さを欠き、論理的思考を欠いているのです。
私はこういう人間が大好きです。心が豊かだということはこういうことだと思います。

途中交代を命ぜられて十字をきって登場するサッカー選手、御馳走を目の前にして思わず手と手を合わせる日本人。
何気ない行為に違いないんですが、それでもこういった行動を注視していると、彼らの抱いている不安とか畏れとか感謝とか、分かったような気になります。私はそのたびに人間って好きだなあと思うのです。

このまえ甲子園を見ていましたらですね、途中急に試合が中断されたと思ったら、サイレンが鳴りはじめました。30秒ほど何が起こったか分からないでいたら、その日が8月15日であることに気付いた。
客席も含めてみんなが起立し、黙祷していました。

こういう心豊かな人間の行為を政治的だとか言って批判する人がいます。
もうちょっと凝り固まった脳みそをほぐしてみてはというのが私の提案です。なぜならば、純粋な平和に対する愛情とか、死者に対する哀悼とか、敬意とか、そういう心の奥深くからふつふつと沸き上がってくる感情を失ってはそれこそ意味のない生ではないですか。そういう人間の行為に睨みをきかせた上で、一体どんな社会をより崇高な価値があると考えるつもりなのでしょうか。

脳が全て、主観的世界が全て。したがって、死ねば無。
私は、「生きてる意味なんてないけど、生きなきゃならないんだ!」とかいう熱血的なセリフを吐くつもりは毛頭ないんです。
「生きてる意味とかないのか・・・。じゃあどう生きてもいいんだな・・・。楽しみだな、この先。」みたいな人が私は好きなんですよ。
そしてさらに言えば、死ねば終わりということを頭のどこかで分かっていながらも、死などの強大な畏怖を目の前にして不可解な行動をとる人間がもっと好きなんですよ。
要するに私は宗教家が好きなんです。少なくともそういう宗教家のそういう不可解な行動を理性をもって批判する輩よりかはね。

今回ちょっとまとまりませんでしたが、次回私が考える「幸福実現(!)」の方法についてつらつらと述べまして、今回の分も含めてうまくまとめて、怪しいセミナー大団円としたいと思います。では。

人は死ぬから、心が豊か 其の四

2009 年 8 月 21 日 金曜日

総務大臣

みなさん、どうも。おともだち内閣怪しいセミナー四日目にご参加いただきありがとうございます。
「おいけのまわりにお花がさいたよ」でお馴染み、総務大臣の歌川つめたろうでございます。

前回までのセミナーで、「宇宙は分からない。」「この世に真実なし。」と言い切りました。
人は死ぬから、心が豊か 其の一
人は死ぬから、心が豊か 其の二
人は死ぬから、心が豊か 其の三

前回の其の三では、特に「この世に真実なし。」についてぐちぐちと喋って参りましたが、もっと詳しく考えるべき箇所があります。
それは、「そもそも真実かどうか確かめる術がない」というところです。なぜ、これが問題になるのかというと、この世界の創造者であれば全ての事柄に真偽を下せるからです・・・!
要は、「神様に真実かどうか聞けばいいじゃないか。」ということです。

あなたが無神論者ならば、「馬鹿なこと言うな。」と憤激するかもしれませんですね。
だけども、神様の存在を信じている人々にとっては、これは由々しき問題です。
というわけで今回は、「神をどう考えるか」「宗教って何じゃらほい」というテーマで私どもの思想を垂れ流して参ります。

まず、神様について。
無神論者と有神論者の間では、神様はいる、いないという水掛け論が勃発し、互いに分かち合えない対立が発生するでしょう。さらに、一神教の信者同士でも同様に、うちの神が唯一神やで!いや、うちの神やで!という、やはり分かち合えない争いが巻き起こるものです。
私どもの間では、そんなものこたえは出ているんです。
神様は”いる”でも、”いない”でもない。どちらでもないんです。「神様はいるかどうか分からない。」が唯一のこたえなんですよ。
だから、無神論者と有神論者の冷戦にしても、一神教信者同士の熱戦にしても、誰も間違っていないんです。
だけど彼らの言い分は、残念ながらどう考えても、客観的ではないんですねー。だって、誰も神様が存在すると証明できないし、存在しないとも証明できないのですから。
そう考えると、神様がいるとかいないとか思っているのはかまわないんですよ。自身の想像力を駆使して、帰納的に推論すればいいわけですからね。でも、「神様がこう言ってるから」とかいう論理を客観的・普遍的真実にしてしまうことには無理があるでしょう。
つまりですね、神様というのは主観的世界にのみ存在しうるものだと思うんです。

前回までのエントリで、真実なんてものはない、と声高に申し上げましたが、それでも人間はあるニュースを見て吐き気を催したり、ある映画を見て恍惚としたり、プチプチを潰しながら無になったり、現実にしますよね。人間それぞれが真善美の価値基準をある程度持っているはずなんですよ。だけども、それらは絶対に普遍的なものではありません。たとえ1000人が1000人同じことを言っても、あくまでそれらは主観的価値基準だと強く認識していなければなりません。「この世に真実とかない。」というのはそういう意味です。

けれどもけれどもね、人間が最終的に頼れるのは、自らの真善美以外にないですよ。
いくらとある宗教を絶対的なものだと思い込んでも、具体的な宗教活動を行うときに吐き気を催すようなことがあれば、その人の真善美とその宗教の価値観が融合しきれていないんですよ。だからですね、もしこういう人がいましたら自分にとっての真善美をもっと考えて、素直に生きてもいいのではないかと思うのです。

「宗教とは触媒である。」
どこかの哲人が言ったと見せかけて、この言葉は私が考えました。みなさん、流行らせてください。
イチローは偉大な記録を次々とつくって、今や誇れる日本人の代表格的な扱いをされています。私が驚くのは、こちらがひるむほどの彼が持っている完全無欠なまでの「自信」です。彼ほどの境地に達したいと思っている人は結構多いはずです。
それでは、「昔のイチロー」を「現在のイチロー」へと導いたもの、すなわち「触媒」、は何だったのでしょうか。
これは私の推測ですが、血のにじむ鍛練だったのではないかと思います。つまり、誰にも負けないほど練習を積み、考えて苦難をのりこえてきたという一連の経験が、彼を日本随一とも言える自信家へとのしあげたのです。この場合、イチローにとっての「触媒」、すなわち「宗教」は「野球」であるのです。
もっと詳しく言えば、こういう練習をすればこういう技術が身に着く、こういう習慣をつければ落ち着いた精神状態で試合に臨める、こういう練習をするときにはこういう意志を持って臨むべき、プロとして自分はこうあるべき、などという自分にとっての真善美を彼は経験的に身に付けた。結果的にその徹底さが人間としてのイチローを強いものとしたのです。そして、その助け、触媒の役割を果たしたのが「野球」だった。
一般的な人にとっては、野球が宗教になるわけがありません。
イチローみたいにはなれないやという大半の人々には、野球ではなくその他様々な宗教が世の中にはあります。イチローにとっての野球みたいな存在が自分にはないという人は、怪しい宗教でも全く問題ないと思います。
とにかく、宗教とはあなたの真善美を開眼させるための手段だというのが私の考えです。

怪しい宗教って何かと敬遠されますよね。
他教をぶったたくことでしか己の優位を保てないと言うならばそういう宗教があってもいいでしょう。
けれども、あなたの宗教がぶったたかれたといって(オウム真理教のように幹部総逮捕のようになったとしても)、あなたは何も気にすることはありません。
なぜならば、この世に真実とかないからですよ。問題なのは、あなたの宗教があなたの真善美とずれてしまったときです。

結局私が言いたかったことは、この世の最も興味深い神秘は、自分だということです。
自分の脳の中に神様は座っている。そして自分の真善美を追求し、開眼させることで、神に出会えるのではないか。そして、その手伝いをするものが宗教であると。

いや~、今日の私は特に怪しかった。
でも、ここまで言えるとあとはもう簡単。自分を見つめていると、ある重大なことに気がつくんですねぇ。
怪しくも壮大な本セミナーも、いよいよ終わりが見えてきたかもしれませんですねぇ。

人は死ぬから、心が豊か 其の三

2009 年 8 月 20 日 木曜日

総務大臣

「おいけのまわりにお花がさいたよ」でお馴染み歌川つめたろうです。
現在、おともだち内閣の諸主張の根幹を担う思想「人は死ぬから、心が豊か」をシリーズでお届けしております。

人は死ぬから、心が豊か 其の一
人は死ぬから、心が豊か 其の二

第一、二回を通して、「この宇宙が何ものか」という問題を考え、「わからない。」というこたえを導き、論理で宇宙や人間などの超自然的なものを体系的に説明することはできないと言いました。
今回はそれを受けて、だから「この世界に真実とかない。」ということを説明しようと思っております。

前回、宇宙は無限でも有限でもないという想像力を働かせることの重要さを述べましたが、その際に鬼才エドガー・アラン・ポーの力を借りました。実は、今回のテーマである「この世に真実なし」という思想も、彼の大作「ユリイカ」に依っているところがあります。
ポーがユリイカの中で再三ぶち切れながら述べていたことは、「演繹法」のおこがましさについてです。
演繹法とは、自明の真実を前提として個別の事例へと論理展開していく推論の手法です。しかしポーは、この世に自明の真実とかないんだよ!としきりに噛みついていました。帰納法という推論の手法が現れて以降、科学は急激な発展を見せたのだとも言っていました。

私は、まさにポーの言うとおりだと思います。
今さらですが、私は論理学も自然科学にも詳しくありません。けれどもこういう話はよく理解できる。
演繹法なんてのは、論理学、つまり人間がつくり出した学問の中でしか通用しないんですよ。だって、「おぎゃあ」と生まれてすぐ、「太陽は東から昇り、西へと沈む。これは自明の真実である。」なんて認識しないでしょう。「おぎゃあ」と生まれて以来、「毎日太陽は東から昇り、西へと沈んだ。きっと明日もそうに違いない。」と考えるのが普通じゃないですか。これが帰納法ですよ。
つまり、この世界を、この自然界を捉えようと思ったならば、経験的に法則を見出すしかない。はじめから分かりきっている真実などないのです。
私たちは、幼少時代から阿呆みたいに数学を勉強させられる。その数学には、真偽があるんです。なぜなら、「定義」というシロモノから論理がスタートしているからです。事の始まりを定義という形で決めてしまうことで、その後の論理展開に真・偽という性格が現れてくるのです。
けれども、物理は少しわけが違います。ニュートンの運動方程式など公式が多々ありますが、これは数学的な定義とは違います。
ボールを転がしたり、壁にぶつけたりなどの実験を繰り返して、日常現象の法則から、それと似たような結果を与えてくれるモデルを数式でつくり出すのです。つまり、ニュートンの運動方程式とか、マクスウェル方程式とか、モデルにすぎないんです。だから、「適当に数式を作ってみたけど、どういうわけかこのモデルの通りに世界は動くんだよね・・・。」くらいのものでしかないんですよ。
これはちょっと考えれば、当たり前のことですよね。「力学の世界を記述する方程式を作りました!これは真実でしょうか?」って聞かれても、誰が「真実です。」って答えられるんですか?そう言えるのは神様しかいないですもん。
私たちはせいぜい、「うん。たしかにこの通りに動いてるね。それっぽいね。採用しよう!」くらいの返答しかできないんですよ。

いいですか、今までだらだらと述べてきたのは、「自然界には、真実とかそんなもんない。」ってことです。私たちが普段真実だと錯覚しているものは、単なる推論にすぎなかったり、主観的なものにすぎなかったりします。だってそもそも、真実かどうかを確かめる術がないんですから・・・!
この考えが私どもは非常に重要だと考えておるんですよ。これはのちのち口を酸っぱくして言うつもりですが、「絶対的に正しいもの」、「普遍的真実」を探そうという観点で世の中を捉えていてはダメなんです。そうではなくて、あらゆる分野での言論は、「いかに自分の主張がそれっぽいか、みんなに納得させる」ための闘いなんですよ。だから真実かどうかということは問題にはなりませんし、真実という旗を掲げてはいけないと思います。

「宇宙の実態とは、”わからない”である。」それから、「自然界には、真実なんて存在しない。」と言いました。
だから何?と思われる方も多いでしょう。ですが、私どもが最も主張したい「人は死ぬから、心が豊か」をより信憑性を持たせて説明するのに、絶対的な存在を限りなくぐらつかせておくことが必要だったのです。
そういうわけで、次回からは「この世界は、主観的観測に基づいている」という自論を遊ばせたいなと思うております。

人は死ぬから、心が豊か 其の二

2009 年 8 月 19 日 水曜日

総務大臣

はぁ。「おいけのまわりに・・・」
歌川つめたろうでござんす・・・。
現在おともだち内閣の基本理念となる部分を複数回に渡って説明しておるところでございます。私どもの拙い世界観を根気よく見てくださる方に感謝の意を申し上げます。ま、拙いと謙譲してはおるものの、この主張が揺るがされたならば、私どもは今までのあらゆる主張を全て撤回するくらいのつもりでおりますがね・・・。

はい。前回まで「この宇宙って何?」について考えて参りました。
今回も同じテーマです。前回からの続きです。
人は死ぬから、心が豊か 其の一
前回、「この宇宙って何?」という問題からはじめて、その唯一のこたえが、「わからない。」だと言いました。
この真意を明確にするために、量子力学の話にふれて不確定性原理について説明しました。この原理は、私たち人間がどうがんばっても知ることのできない領域があるということを示唆していました。

さて、この非情にもほどがある人間の運命を予言した男がいたのです。
エドガー・アラン・ポーです。
彼は死ぬ間際の著作「ユリイカ」で、彼の宇宙観をつらつらと書き連ねています。彼はその著作で、「宇宙は無限か?有限か?」という問題に言及しています。
彼の導きだしたこたえこそが、何を隠そう、「わからない。」だったんですよ。

普通私たちは、無限でないならば有限、有限でないならば無限、と考えますよね。これは論理学的視点から言えば当たり前です。
論理学というものは、その範疇の話であれば絶対的に正しいものです。数学も同様です。なぜなら、人間が創りだしたものだからです。矛盾がないようにね。
けれど、この世界は残念ながらそうではない。人間が作ったものではないから。だから、この世界を把握するには、人工の論理学とか数学にとらわれない想像力が必要だと私は思うのです。
エドガー・アラン・ポーはこのような想像力において、天才だと思います。
つまり彼は、宇宙は無限でも有限でもない、という可能性を考えることができた。無限でも有限でもないということは、「わからない。」ということなんですよ。
だってね、宇宙が有限だと仮定しましょう。そしたら、その先は?その外には何があるの?何も無いの?何も無いってどういうことなの?と考えざるをえないでしょう。人間は有限空間の先にあるものを想像できてしまう生き物なんですよ。
かといって無限だと仮定すると、無限ってどういうことなの?終わりがない世界のずっと先を行くとどこに着くの?と、これまた訳がわからないことになってしまう。
そもそも、宇宙が有限であるとも、無限であるとも証明しようがないんです。だから、私たちが導き出せるこたえは、「この世がどうなっているのか、人間には分からない」これしかないのです。

この解答にいまひとつ満足できない方は、ゴン=フリークスがハンターになるために挑戦した二択クイズを考えてみればいいかもしれません。
「死にゆく息子と娘、どちらか一方しか助けられないとき、どちらを助ける?」
この問題を論理的に考えるなら、「息子」か「娘」か「両方助けない」のどれかしかありえない。しかし、答えは「沈黙」でした。
沈黙はダメというルールにしたら、あなたは何と答えるでしょうか?「わからない。」以外に答えはないと思うんです。

実際、宇宙が有限か無限かということが死活問題になったり、息子と娘どちらか一方しか助けられない状況に遭遇したりすることはおそらくないでしょう。けれども、人間は自ら投げかけた問題を論理で解決できないことがある。
これは人間の豊かな想像力に、論理学とか数学がついていけていないことの証左であります。
これには、人間の想像力が「自然」なのだ、という解釈ができると思います。この宇宙に生まれた人間はそもそも「自然」であった。その自然の想像力から生まれたものの一つが「人工」の論理学であり、数学であったのです。
ですから、人間の心とか、宇宙の姿とか、超自然的なものを論理で体系的に捉えることはできない。
「この宇宙って何?」という問題のこたえが「わからない。」なんてすっとぼけた主張をした真意はここにあります。

やぁ・・・、この宇宙が何なのか、少しは分かったでしょうか?むしろややこしくなったでしょうか?
「この宇宙が何ものか分からない」という説は、その次の段階、「この世界に真実とかない。」に引き継がれます。それでは、次回をお楽しみに。

人は死ぬから、心が豊か 其の一

2009 年 8 月 18 日 火曜日

総務大臣

「おいけのまわりにお花がさいたよ、つめたろう」
総務大臣の歌川つめたろうでございます。本日は、これまたポエムとかそういう茶番はやめて、私どもの主張をストレートに申します。

今回のテーマは、おともだち内閣思想の根底に横たわるものです。
本来ここんところをはっきりさせてから、様々な細かい政策等に関していちゃもんつけるべきでしたが、なんだかそれ言っちゃおしまいみたいな気がしててもったいぶってたんでございます。でも、この際洗いざらい吐き出しちゃお!てへっ!

まずですね、みなさんが知りたくて知りたくてしようがない問題、「この宇宙って何?」について明快な答えをさしあげましょう。
そのこたえは、「わからない。」です。
「わからない。」とは、考えるのを放棄したのではありません。「わからない。」こそが唯一のこたえなのです。
あなどるなかれ。「わからない世の中」にこそ、我々が生きる上でのヒントがあるんですよ。

「我々が月を見ていないとき、月は存在するのか。」
さて、こんな阿呆なことを言い出したやつがいます。
月を見てようが見てまいが、そんなことに関係なく存在するだろ!これが自然な考えですよね。
でも実は、月のお話は哲学界から提出された問題じゃないんですよ。極めて科学的な問題だったんです。
科学的に言えば、もちろん月は存在してます。けれど、ミクロの世界では「月を見ていないとき、月は存在しないんじゃね?」という現象が起こるのです。
量子論とよばれるのがそれです。かの天才シュレーディンガーですら、これを受け入れられず、泣きべそかいて家を飛び出したほどです。アインシュタインも量子の不可解さに発狂してピンポンダッシュを繰り返したことはご存知の通りです。

シュレーディンガーの猫 -EMANの物理学
このあたりの事情に詳しくない方は、EMANの物理学を参照あれ。素晴らしいサイトです。

量子力学の流れを辿ると、不確定性原理というものにぶち当たります。
そう、まさにこの不確定性原理のおかげで数々の偉大な科学者達が涙し、引きこもり、天を仰いだのです。
不確定性原理は簡単に言えば、粒子の位置と速度を厳密に同時観測することができないという原理です。これは測定に際しての誤差から生まれるジレンマです。
たとえば、走っている人間の速度と位置を同時に調べてみましょう。
速度を正確に知りたいならばある程度の距離をもうけて測定すべきです。なぜなら、1mの区間でストップウォッチをスタート&ストップしていては、測定に誤差が出まくってしまうでしょう。その点50mくらい余裕をもたせれば、ストップウォッチのスイッチを押すときの誤差は無視できるほどになります。
しかし、これで得られた速度は50mという区間の平均の速さです。したがって、ランナーの存在する位置は厳密に決定できず、50mという幅をもってしまうのです。
これを解決するには、区間を狭めればいいのです。10m区間、5m区間、1m区間と距離を縮めることで、正確な位置を特定できます。しかし前述のように、こうすると速度の誤差が大きくなるという堂々巡りにはまるのです。
もちろん、ストップウォッチではなく、もっと精密な機器を使えば位置も速度も厳密に特定できます。しかし量子級のミクロな世界となると、どれだけ測定の精度をあげようと思っても、「光」という限界が現れてしまうんですねぇ。これが不確定性原理です。
つまり、超ミクロな世界がどうなってるのか人間は厳密に測定できない。これが量子力学の基本なんです。

不確定性原理 -EMANの物理学

不確定性原理とは、つまり人間が知り得ない世界があるということが物理学の世界から証明された、衝撃的な理論だったのです。
今回はここらへんでおひらきにしましょうか。
次回は、「この宇宙が何ものか、人間には分からない。」
こんな空虚なことを何故私どもが必死こいて説明するのか、も少し詳しく掘り下げていきます。

自由を論じる世のインテリどもが決定的に欠落しているある思考

2009 年 7 月 29 日 水曜日

総務大臣

「おいけのまわりにお花がさいたよ つめたろう」
キャッチコピーから失礼します。総務大臣の歌川つめたろうでございます。

今日はわたくしといたしましては、幾分まじめな話をしたいと思っております。
タイトルにありますとおり、「自由」についてのお話です。途中便所に行きたくなられましたらば、後方とって口より出られて右手にございますので、速やかに退席願います。

学問を志す者は誰でも、このテーマを言及しないわけにはいきません。哲学者も、社会学者も、経済学者も、はたまた科学者であっても、「自由を与える」という建前で研究を展開していきます。これは私が思うに、異議を唱える余地のない、すなわち「自由が本当に必要なの?」と問いかけることに意味のない、本当に根源的な人類共通のテーマなのです。

世の中を見てますと、政治的な立場として「リベラル」というものがあります。これは「自由主義者」と捉えることもできましょうが、なにも「リベラル派」だけが自由を唱えているわけではない。共産主義だって、全体主義だって、宗教家だって、それぞれの自由を主張しているのです。今はたまたま多数の人が資本主義に自由を感じているだけであって、そのバランスが崩れれば何が自由か、という概念も変わってくるはずです。

たとえばマルクスは、「自由とは自由に活動できること。自由時間の拡大こそが目的である」と考えました。これは、好きなときに働いて、好きなときに遊べる、労働時間を短縮するという意味です。マルクス本人はそれが本当の自由ではないことを指摘しているそうですが、「自由とは時間があること」、ととりあえずは考えたのです。
もちろんそんなわけはありません。時間が腐るほどあれば自由なのか?
仮にこれが自由だとすれば、そんなものを人生賭けて勝ち取ろうなんて思いませんよね。永遠の生が仮にあるとすれば、それは地獄でしかないでしょう。人間はいつか死ぬことを知っているから心が豊かなのです。三島由紀夫が金閣でほのめかした美の概念は今になって私にはよく分かります。
けれども、現代の科学とか市場というのはどうもここんところが分かっていない。科学や医学はますます進歩して、それに経済学が合わさって、ますます私たちは生老病死を隠蔽され、わずらわしさを意識することなくすむのです。
これが善だと本気で考えている人ははっきり言って論外です。

これと比べて、たとえばヒンドゥー教に代表されるような、宗教が考える自由は非常に興味深い。
ヒンドゥー教は「自由とは、自らを束縛する欲望から解放されること」とといています。
こういう考えを聞かされると、私なんかははっとさせられる。欲望にただ突き動かされる人生なんて、たしかに屑だよなあ、と。この欲望を何とかせねば・・・、というのも分からないではない。
けれども、腹が減っては戦ができぬというのは私には分かるし、ある程度の余裕があっておおらかな心を持てる気がするんです。つまり、欲望をどこまで排除するのか、そのためにイライラしはじめたら元も子もない。バランスをどこでとるべきか・・・。
それに、この事実は私にとって悔しいことでしかないのですが、薬物中毒になるほど欲をコントロールできない連中が、どういうわけか至高の音楽を奏でたりする。

哲学者は、人智を超えた偉大なものではなく、もっと人間そのものを深く分析してきます。
私は彼らの著作をひとつひとつ確認してはいませんが、あえて申し上げるなら、哲学者なる人々は学問を基盤としているため、どんなに壮大な見識を持っていたとしても、それを文章にし、体系化しなければならない。その時点で矮小化されてしまうと思うのです。
これは私の憶測ですが、哲学者たる者も自らの博学さゆえに、自己矛盾に気がつき、苦悩していたのだと思います。
たとえば、ニーチェは偉大な哲学者の一人としてあちこちで継承されていますが、彼の最期は非常に興味深い。

ここまできて、養老孟司を持ちだすのですが、「何事も一元論では語れない」という一元論に辿りつきます。要するに一概には言えないよ、というだけのことなのですが、彼らは相当自由に近づいているというのが私の印象です。
なぜならば、常に他の選択肢を受け入れる心の豊かさがあるからなのです。絶対的なものを据えない自由さというのはたしかにあります。
けれども、私はこれでも満足しません。なぜなら、一元論を選ぶという選択肢を彼らは排除しているからです。人間は、一元論が非常に気持ちよく感じるものなのです。たしかなものなど何もないと言われて、一体どれだけの人が救われるでしょうか・・・。

ここまで世のインテリたちの観点を追ってきたわけでございますが、つまり彼らに欠けていたものとは、主張からの解放なのです。
これは主張を持たないという意味ではありません。主張をするな、ということでもありません。
一旦ある主張をしたあとに、それと整合性を持たせるために感じる不自由さからの脱却を言っているのです。
人間がどうなれば幸せか、ということを論理立てて考えることはできないのだと思います。これを論理で解決しようとしたり、実証的に法則を見出そうとしたりするところに「不自由さ」が姿を現す。
人間はこの生に意味がなければ生きられない、とよく言われますが、そんなことを言い出すのは大抵男です。女という生き物はまことに不思議ながら大義名分などなくてもひょうひょうと暮らしています。

この点から言うならば、ヘベレケ令嬢が好きな芸能人をタモリと答えるあたり、私は最近よく分かる気がします。一貫性のなさが神秘的な自由さを醸し出しているのです。
けれども、やはりナンバーワンの自由人はポックリボーイではないかと思うのです。自由を論じる人たちはもっとポックリボーイを参照してしかるべきだと私は思います。
ただし、ポックリボーイの自由さを見ていると、ある種の不自由感におそわれる感覚があります。
この正体は自らの能力に対する不自由感です。つまり、ポックリボーイと同等の発想をできないことに能力的な限界を感じて歯がゆい思いをするのです。

けれども私は最後にこう付け加えておきたい。
自らの能力に不自由を感じる世の中こそ、真に豊かな社会であると。

小学生が書きそうな作文「ちっこい虫の世界」

2009 年 5 月 25 日 月曜日

総務大臣

おいけのまわりにお花がさいたよ、
キャッチコピーから失礼します。おともだち内閣総務大臣歌川つめたろうでございます。

いちポエマーとして内閣内でも定評をえはじめたこのごろですが、今回はまた新たな取組みでございます。小学生が書きそうだというテーマで、少年時代に立ち戻って、筆を転がしてみようかと思っております。

「ちっこい虫の世界」  歌川つめたろう

クラスがえがあってしばらくたちました。ぼくら5年4組もだんだん雰囲気もよくなって、まとまってきました。学級委員長の魚田くんがまれに見る求心力を発揮してクラスの指揮ををとり、監査委員の葛西さんがその歯止め役となってバランスをとるという構図がとてもよく機能してきはじめたなと思います。

去年も、おととしもそうだったんですが、クラスがまとまりだす時期というのは、決まって暑くなりはじめる季節です。
ぼくは冬よりも夏のほうが好きですが、暑くなるといやなのは虫が出てくることです。蚊とかちっこい虫がぶんぶん飛び回って目ざわりなんです。
そうすると家でくろいでいるときに飛んでる虫を見つけると、家族の目の色がぎろりとかわります。そしてパン!と手をたたいて目ざわりな虫どもをほうむり去ります。

けれどぼくはその時ふと思うのです。ぼくが虫の立場だったらどうだろう?

ぼくが自分よりも何倍も大きい手によって一しゅんでつぶされるということを考えると、残こくだと思います。
残こくというのはわかっていて、その一方でぼくはパチパチやってつぶしてゆくのです。

ところが、虫のほうもだまってつぶされているわけではないのです。
このまえ一匹こしゃくなやつがいて、パチンとたたいて、つぶされたのを見ようと思って手をひらいたとたん、なにごともなかったように逃げていくやつがいました。
虫はちっこいので、人間が手を合わせても、うまくいけばそのすきまで生きのびることができるからです。

けど、そんなことはめったにありません。この虫は奇跡的に助かったのです。九死に一生を得たのです。いまごろは、人間のパチンに直げきしつつも生かんした英雄としてインタビューを受けていたりしてるのだと思います。

オリジナルポエム2 「思い出主義」

2009 年 4 月 17 日 金曜日

総務大臣

ふふふ。再び登場、総務大臣の歌川爪太郎です。
「おいけのまわりにお花が咲いたよ、つめたろう」でお馴染み歌川つめたろうでございます。

いやあ、開花したね。開花。覚醒って言ってもいいね。覚醒ってあるもんだね、この歳になって。

何の話?って、ポエムの話。ポエム以外にないじゃろ!わし、基本的にポエムの話しかせんからね。
前回つめたろう人生初のオリジナルポエムを発表してから間もないが、早くも第2作目ができあがったぞ。できたてやぞ。
けっこう、みんなわしのできたてほくほくのポエムほしさに11時になると行列ができるんじゃけどね、10時半くらいに店先に立ってひょこっと顔のぞかせたりすると、どうぞーとかって言って列に並ぶことなくわしのできたてポエムをほおばることできるからね。

・・・。
わし何言ってんじゃろ。

まあ、とにかく第2作目お楽しみください。今回は「労働の詩」ほどの傑作ぶりではないが、わしとしてはなかなか新しい表現に挑戦した意欲作となっておるからね。それでは、よい週末を。

思い出主義   作詞:歌川つめたろう

昼食は軽めにすませることにして、
うな重の店入った

甘い=スイーツの甘さと
単純に認識していた幼少時代

大人になった今思うのは
この世は一元論では語れない

うな重のたれはたしかに甘いが、
それは旨みを伴う甘みなわけで

人は出来事が思い出化するとき
涙を流す
この世は思い出を中心にまわっている?

「デザインの勉強してます」
なんて言うとかっこ悪いけど、
「思い出クリエイティブデザイン専攻です」
なんて言おうもんなら途端にかっこいい

だけど、思い出主義っていうのは一元論にはならないか
一元論は間違いと言い切ること自体は一元論にはならないのか

そんなこと考えてたら、結局ふたしかなこの世の中
間違いなく言えるのは、
脳みその化学反応にも終わりがくるということだけ

ボブディランは、こたえは風に舞っている
なんて誤魔化したけど
わたしは敢えてヒントを提示しよう

そのこたえはともだちよ、姜尚中が知っている
こたえは姜尚中が知っている