‘文部科学省’ カテゴリーのアーカイブ

博物館の教育的側面とは

2010 年 1 月 26 日 火曜日

文化庁長官

みなさま、はじめまして。文化庁長官の神木白夫(かみきはくお)です。
私はおともだち内閣のどんくさい政治家どもとは違って、権威ある国家公務員試験を受けまして極めて公正な階段を駆け上がって参りましたエリートですので幾分崇高な議論ができるものかと思っております。

さて、博物館の教育的側面とは何でしょうか。
これが分からないと言って、真剣に悩んでおられる方ばかりだと存じますので、今日はわたくしが到達した考えを述べさせていただきます。
ただしはじめに言っておきますが、私は何も全く新しい考えを提示するわけではありません。既に言われ続けていることが互いにどのように関連し合っているかを発見したにすぎません。

博物館の四大機能というものがございます。
資料収集、資料保管、調査研究、教育普及の4つです。
博物館学というのは、その性質として考古学のような既存の学問と似ているところがありますが、決定的にその他の学問と異なるところは教育的側面を持つということです。この教育機能とは一般的に博物館における「展示」活動と一対一対応しているものと考えられるかと思います。

ですが、私のような浮世離れした人間からすると、なぜ博物館において教育的機能というものが存在するのか分かりません。
というのも、私たちは義務教育によってきちんと勉強させられているのに、わざわざ博物館に教育的機能を持たせて、しかも国費を使ってどでかい展示会場を建設したりしています。一体これにはどういう意図があるのでしょうか。
また、浅学者にとっては博物館を訪れても今一つ学んだ気持ちになることもありません。事実、博物館の展示方法で主流になりつつあるのは、展示解説文は極力短くして、学芸員側による一方的な説明的要素を排除しようという動きがあるのだといいます。
それならばなおさら博物館の教育的側面とは何だろうか、という疑問がわいてくるのです。

私はこのように考えました。
教育的機能を本当に満たしたいのならば、資料を全て画像や音声、動画などのデジタルデータにおこして、文献や学術的見解などもひっくるめてウェブ上にアップロードすればいいではないか。そして検索機能、情報整理機能などをつけれたら、学習において最も重要な資料の共有が可能になる。これをもって教育的機能と言えばそれで済む。それに伴って毎年多くの博物館で赤字をぶっこいている展示を縮小できれば一番いいではないか。。。

しかしどうやら博物館の教育的機能は、そういうものではないようです。
それはつまり、博物館の教育において最も重要なものが「現物」だからです。
現物があくまでも大事なのです。これが美術館とは決定的に異なる部分だと私は思っています。
なぜレプリカではだめなのか。
レプリカがあってはいけないということではないと思います。ですが、レプリカの場合は、レプリカそれ自体よりもどのようにして現物が複製されたのかということの方が重要な意味があります。つまりここでも、現物の重要性が見え隠れしているのです。
なぜレプリカ<現物なのか。
これは私の考えですが、博物館の教育とはつまり歴史を学ぶということに尽きるからです。

歴史と言うと我々は、既にストーリーが存在してそれを時間軸に沿って勉強するもののように感じるかもしれません。
しかし、歴史の本質は”人間が生きた”歴史なのです。過去、とある哲学者や文学者、科学者が何かを考え、記録し、または創作しなかったらこの世界の歴史は相当に貧弱なものとなっていたでしょう。しかし実際は生きて、もがいて、ひっかき傷を残していったものが大勢いたのです。そして、その遺産に共鳴を受け、それを保存し、整理し、普及させようと努力した者もいるのです。
これをひっくるめて、私は”人間が生きた”歴史とよびました。
要するに博物館は歴史そのものを直接扱う機関なのです。歴史の傍観者ではなく、歴史の中の一員として。
だから現物が大事なのです。
歴史という学問が研究対象とするのは、現物以外にありえません。私たちに歴史を教えてくれるのは、レプリカではなく、結局のところ現物でしかないわけです。
ですから私がさっき述べたように、資料をアーカイブしてウェブにのっけるという教育の方法は、単なる傍観者が見る歴史でしかありません。そうではなくて、来館者も歴史の体感者になってもらうことが博物館の役割なのだと私は考えています。

もしかしたら、博物館の現場の人たちはそんなことよりも動員数を増やす方が大事だと考えておられるかもしれません。現実的な問題としてそういう切実なこともありますのでなかなか難しいとは思いますが、それでも歴史の体験感覚を追求することなく、大衆迎合的なコンテンツを充実させているばかりでは、こんな時代です、博物館が必要なら民間にやらせればいいと私は思います。

超現実的、人類滅亡後の動物世界への回想「アフターマン」

2009 年 12 月 13 日 日曜日

文部科学大臣

すごい本を読んだので取り急ぎ書評を。
おともだち内閣文部科学大臣の本田スパニエルです。

読書の秋ですね。というわけで、私は最近小飼弾が選ぶ最強の100冊+1を読んでゆくというキャンペーンをやっているわけですが、すごいのがあったので報告です。

アフターマン。人類が滅亡したあとの地球で、生物界がどう変化するかということを描いたフィクションとノンフィクションの狭間を駆け巡る科学本です。
これが・・・、おもしろいんだ。
子供に読ませたい本暫定ナンバーワン。や、むしろ幼少期の「私」に読ませてやりたい。
著者(ドゥーガル・ディクソン氏)は、人類滅亡から5000万年後の学者かなにか(宇宙人?)の視点になりきっています。さも、長い間地球を観察していたかのように、冷静な文体で、それっぽく書いているのです。

進化ってのは、結局のところ遺伝子の突然変異が原因で起こると言われています。突然変異は完全なランダムです。
だとすれば、ある一定の確率で変化した突然変異種が無数に生まれることになります。けれど自然界は弱肉強食ですので、他の種よりも有利な形質を獲得した突然変異種が生き残っていくわけです。
こうして生物はその環境に適応した最適解を見つけるために、試行錯誤してゆくのです。

たとえば、寒冷地に住む動物は体が大きいものが多く、逆に砂漠などの高温の地では小さいものが多いらしい。
これは、寒冷地ではできるだけ体温を逃がさないような仕組みが要求されますので、体積に対する表面積の割合が少なくなければいけないためです。
このようにして、似た環境に住む動物たちに一定の法則を見出すことができます。

ですが、私が思うのは、その環境に対する普遍的な最適解というものは存在しないだろうということです。
現存する生物たちは、既に絶滅してしまった種よりも、現在のその環境への適応力が高かったということは間違いないでしょう。けれど、それらの種はベターであったけれども、ベストではない。ベストな形質なんてものはもともとあるはずもないのです。
たとえば、さっきの例で言うと、体の大きい動物が寒冷地でベストな形質ではありません。体が大きいという物理的な制約が逆に弱点になっていることもあります。そのため、ある突然変異種が体が小さくても体温を維持できる仕組みを手に入れた場合、その環境では彼らがベターになるのです。

こうして生まれた新種もまた、ベストではありません。
あくまで、「その瞬間」、「その環境」への適応力が比較的高いとしか言えません。なぜなら、環境というのは常に変化するからです。
この本では、5000万年後の地球の大陸図も、プレートテクトニクスから予想しているのですが、地形的な構造だけが問題になるわけでもありません。本書でもおもしろい例が紹介されていました。

熱帯ジャングル環境の話ですが、ネコ科の動物がですね、手を180°自由にまわせるようになって、しかも物をつかめるようになると言うんですね。
こういったことが、革命なんです。
ジャングルでは本来、木の上はサルの独壇場でした。サルよりも樹上で自由に動ける敵はいないのです。
ですが、肉食のネコが物をつかめるとなると当然狙いは木の上ということになりえます。そうすればサルたちの夜もねられない生活が始まります。このネコからの攻撃をうまく回避できなかったサルたちは今までの棲み家を追われることになります。
著者はこうして一気に進化が起こると言います。

要するに、生物圏はいっろんな要素が複雑怪奇にからみ合って成り立っているのです。ですから、ほんのちょっとの変化が大きな変革を後にもたらす、バタフライ効果のようなものが実際にあるんですね。
ですから、著者が予想した未来は外れているでしょう。そもそも、人間が滅亡するという前提ですし。
著者は、そんなことは百も承知だと思います。また、この本のおもしろさはそういう所にあるのでもない。
本書を読めば分かりますが、吹き出しそうな動物が次から次と出てきます。パラシュリュウなんかは典型です。
けれども私は、ディクソン氏の頭にはもっともっと奇抜な発想があったのだろうと思います。だけど、「これじゃあ生存競争に負けるようなぁ」と冷静に考えて、しぶしぶとりやめた、そんな姿が想像されるのです。

本書には、人類がなぜ滅亡したか、人類滅亡をどう阻止できるか、みたいなことには一切言及されていません。進化のメカニズムに関する説明は少しされていますが、それでも一般の書に比べれば不完全なものです。
アフターマンを一言で要約するなら、「科学的見解に基づいたディクソンの惜しげもない空想の産物」です。

私は天才に生まれたかった。
天賦の才を持って、思い描く理想像が明確にあるのです。
それは決して世の中をよくするとか、豊かにするとかいうことではない。
究極に無意味なことを、あらゆる学問を総動員させて、それっぽく開発、分析したい。天才的リソースの全てを無意味なことに費やしたい。
つまり私は「アフターマン」を生み出すような男に生まれたかったのです。

浮世絵師の肖像画家としての腕前

2009 年 9 月 10 日 木曜日

文部科学大臣

文部科学大臣の本田スパニエルです。
昨衆議院選では無事に当選を果たしまして、再びこの座に居座ることができました。愚民の皆さんにはまことに感謝いたします。

文部科学省としましては、日本特有の文化をもっと世界に広めてゆき、外貨を稼がにゃならんのですが、やっぱりビジネスになる一押しの日本文化といったら漫画ですね。すっかり漫画ですね。
もともと漫画というのは、万画。すなわち「よろづのものを画いたもの」という意味で絵手本のことだったそうです。それが今や日本の漫画は世界的にバカウケで、他の追随を許さないレベルにあります。

でも日本画の歴史を辿ってみるとそりゃうなずけるんですよ。
西洋でですよ、印象派降臨!ルノワールだ、セザンヌだ、我こそは本物の芸術家なり!なんてやってるときに、はるか東のジャポンでは、すごい絵を描いてたんですよ。浮世絵ってやつですね。

ヨーロッパの人たちはまじめですよね。彼らは、はじめは荘厳な、超遠近法的な絵を描いてました。ああゆう絵はすごい圧倒感があってすごいのはすごいです。スケールもでかいし。そのあとの印象派で西洋絵画はがらっと印象変わるんですが、なんかですね、まじめくささはそのまんまなんですよね。ルソーやダリやピカソの登場を待つまで、なんかやっぱまじめーな絵のように思うんです。
ルソーとかが現れて、吹き出しそうなおもしろい絵が出てくるんですけど、その絵からもふざけてというか肩の力をぬいて描いてるような空気が全くないんです。やっぱこのおっさんたち芸術やってるよ、みたいなにおいがすんですよねー。

そういうのにどっぷりつかってから浮世絵を見ると、「よくやったぜ!日本人!!」なんて思うんです。
西欧とは違って日本の画界を牛耳っていた者たちは、総じて「粋」なやつらだった。なんていうか、芸術を生み出してるなんて崇高な感覚が全然見られないんです。子供が絵を描くかのようにニタニタ笑いながら、筆をぺちゃぺちゃやってる、そんなかんじがすんですよ。
だって、江戸時代田舎では浮世絵と言うと春画(性行為の様子を描いた絵)のことを指していたらしいですからね。
こういった脱力感が、現在の日本にも受け継がれる漫画エネルギーの源泉のような気がします。

浮世絵界のレジェンド東洲斎写楽はあまりにも有名ですが、クルトというドイツの研究家は彼を世界三大肖像画家と絶賛したそうです。
これがなんとも滑稽で、ちなみに彼が挙げた3人は、レンブラント・ベラスケス・写楽なんですが、この3人の作品を並べてみるとおもしろい。
「なんで?」と言いたくなります。

レンブラント作ベラスケス作写楽作

写楽の絵が肖像画として評価されるとなると、にわかに巻き起こってくるのが、「当時の日本人はどんな顔をしていたんだ?」という疑問です。まあ、実際のところ今の日本人と大して変わらないんでしょうが、それでも昔の日本画に描かれている顔はあまりにもデフォルメチックなので、少し気になるところはありますよね。
喜多川歌麿が大成した美人画の元型にしても、キツネみたいな顔をしています。これがつい200年前くらいまで美人の典型だったなんて不思議なかんじです。

喜多川歌麿作

そう思うとますます当時の日本人の顔に興味がわいてきます。
浮世絵師は一体どの程度、本気で肖像を描く気でいたのか・・・。彼らに写実的な絵を描く気はなかったのか・・・。もしかしてわりと写実的に描いててこれなのか・・・。

そうこうしていたら発見いたしました、とある浮世絵。
写真があるので、実物とどれくらい似ていたか見比べることができます。

ペリー 浮世絵ペリー 写真

なぁんだ、結局ギャグか。浮世絵ってやつは。

「鈴木先生」第一巻につきまして

2009 年 6 月 27 日 土曜日

文部科学大臣

またしても文部科学大臣の本田スパニエルでございます。
ここ5回中4回が私の投稿ですね。これは今月のMVPはわたしで決定ですかな?

さて、マイケル・ジャクソンが死亡する季節になりましたね。今年もそんな季節になりました。
彼は伝説の男です。彼の生涯については、いろいろ意見がありましょうが、こんなにも不気味で謎めいた人間は珍しい。私はマイケルという男のこれまでの全人生をひとつのストーリーとしておもしろいと思いますし、支持します。

で、まあ本日のトピックなんですが、それとは関係なく、わたくし久しぶりに漫画を読みましたのでそれについての話でございます。
漫画のタイトルは「鈴木先生」。
この漫画中学校を舞台に教育に関して悩みに悩む教師の視点で書かれています。学校の現場が舞台なので文部科学大臣として黙ってはおれませんので、感想を申し上げたいと思います。

まずは大ざっぱな感想から。
これはおもしろい・・・!こんな漫画をみなさんもっと書いたらいいですねえ。生徒のために必死こいて最適な教育方法を考え抜く、鈴木先生、魅力ありますねえ。けど、彼はそのうち過労死で死ぬでしょうね。
この作者・武富健治さんですか、彼は目の付けどころというか、視点がすばらしいですね。
ただし、この漫画に登場するキャラクターの外観は例外なく魅力ゼロです。この漫画で登場人物人気投票とかしたらすごいカオスなことになることでしょうね。

それでは、細かいところを。細かいのでネタばれ注意です。
第一巻は大きく分けて三本立てになっていたので、そのひとつひとつに対しておともだち内閣としての意見を申し上げます。

まずは、一つめのテーマ、「テーブルマナー」についてです。
主要人物の一人、出水正ですが、私は彼は嫌いですね。食事中に左手を皿に添えるか添えないかなんてのは、気になるんだったら見なけりゃいいんですよ。どうしても自分でそれをシャットアウトできないのならば、相手に不快だという旨を伝えるか、順応するしかない。それを短絡的に考えてあのような行動に移すのはただのアホです。
学校というのは、いろんな個性が集まった集団の中でいかにコミュニケーションをとり、社会の中で生きていくかということを学ぶ場です。それが第一です。算数、国語とかはその次です。ですから、多少マナーの悪い人がいてもそれはあきらめなければいけない。郷に入っては郷に従うんです。
ここだけは譲れない!ということがあるのなら、直接訴えなければいけません。嫌われるというリスクをおかして行動に移さなければならないのです。それをあんな形で訴えても伝わりませんよ。「心が狭いと思われたくない」という理由からあんな行動を起こして、結局嫌われてるんだったらアホでしょう。鈴木先生もそんな暇じゃないんですから、いい加減にしてくださいよね、ほんと。

それでは、二つ目のテーマ「酢豚」に参りましょう。
はっきり言って私は、これに関して学校が下した決断に批判ゴウゴウです。気に食わないですねえ。
まず、給食の酢豚廃止に対して、クラスをここまで盛り上げてアンケートに持ち込み、職員会議にまでかけたことは鈴木先生の見事な手腕だと言っておきましょう。ここは賞賛に値します。
ただし、職員会議の結果についてはきちがいの沙汰としか思えない。酢豚をどうしても食べられない子は1クラス平均4人、この数が多いから廃止ですか?馬鹿かよ。給食全部ハンバーグにする気かよ・・・。そこで消費者のニーズがどうのこうのとか考えてどうすんだよ。給食は教育の場だろうが。
会議の内容で理解できない点は二つ。
「メインメニューである酢豚を全く食べれずに、空腹のまま5、6限目を過ごす生徒がいる」ということがそんなに問題か?嫌いだから食べないとか言って給食残すやつは腹すかせときゃいいんだよ!人間、もう食わんと死ぬわってなったら好き嫌いとか関係なく食うんだよ、はげが。まれにアレルギーがどうだとかいう人は事前に献立を調べておいて、弁当持ってくるなり、朝飯おおめに食ってきたりすりゃいいだろうが。
そしてもう一つですが、「残飯が大量に出る」ということがそんなに問題か?たしかにいいことではありませんね。ですが、残飯を減らすために生徒のニーズを調べて多数派が好むメニューばかり並べることの方が大問題です。ごみの大量廃棄問題に関連付けて、みんなできるだけ給食食べようねという「教育」をするのが学校の役目です。ですから、酢豚廃止反対の議題で職員会議にかけるまではよかったんですよ。ですが、最後の決定は最悪ですね。
給食配給側もある程度の努力は必要です、しかしコストの問題として限界があるのも事実なんです。

では最後に三つめのテーマ「性教育」についてです。
このテーマなんかも視点がおもしろいですね。中学生の性行為を大人は容認するのかしないのか。たしかに疑問に感じる方もいるのではないでしょうか。
これの解決案として、鈴木先生はおもしろい考え方を提示されました。それは、「性行為の是非は精神年齢に依存する。岬勇気と遠野涼介の妹は秘密を隠し通せなかった、つまりばれたから、精神年齢が十分だと言えない。」という結論です。これは非常におもしろい考え方ですね。
ですが、やっぱりこれは危険だと思います。なぜなら、精神年齢がどうこうという指標ではどうしても事が起こった後でしか対応できないからです。しかし、事が起こった後では遅すぎる場合がある、特に中高生なら。女子高生が生まれたばかりの赤ん坊を殺してしまうという事件がしばしば起きてますよね。この問題の恐ろしさはここにあるのです。絶対的な避妊の方法はない、性行為には常に子供ができるというリスクがつきまとう。
わたくしの考えでは、性教育は必ず行うべきです。しかし、それは性行為を容認するという意味ではなく、大人になったときのために知っておく、という名目です。では、何歳になったらしていいのか?それは年齢で線引きされるものではなく、正しい避妊方法を理解し、避妊のためにお金をかけることができ、さらに万が一のときに中絶のための手術代を支払うことができるようになって初めていいだろう、ということになるのだと思います。つまり、アルバイトをしてそこそこのお金を稼げるようになってからというのが私の見解です。

や~、おともだち内閣の教育論、結構書きました。
「鈴木先生」是非読んでみては?

ウェブの秩序づくりの難しさ

2009 年 6 月 14 日 日曜日

文部科学大臣

いやはや、まことに申し訳ない。
はじめに謝っておきます。三度連続投稿の愚をお許し願いたい、文部科学大臣本田スパニエルです。

日本にはさだまさしという侮れぬアーティストがおりますね。類稀なる才能で「精霊流し」、「関白宣言」などのヒットをとばしたことで有名でありますが、とりわけネット上で注目を集めるのが、「償い」という曲です。

償い -wikipedia
償い -youtube

今回はYoutubeにアップロードされている「償い」に関することがテーマなんでございますけれども、こんなふざけた内閣のブログにかの名曲をはっつけることは恐れ多いかと思いまして、動画を直接持ってくることは控えておきました。

さきほど「名曲」と申しましたけれども、この曲は殿堂入りです。
歌の出だし、はじめの一文で一気に心引き込まれ、だんだんと聞いているうちに心臓がばくばくなり、最後には不覚にも泣きます。
前エントリで、Architecture in Helsinkiを紹介しておいて恐縮ですけど、こんな曲聞いたことない。

・・・ですがね。
この偉大な作品に水をさすやつというのはいるものです。
ネット上での言論のことを言っているのです。

ネットの言論と言えば2ちゃんねるが思い出されますが、2ちゃんねるのシステムには相当ネガティブな側面があった、またはあるというのはみなさんご承知のことと思います。誰でも好きにコメントを残せるというところがネットというメディアの醍醐味でもありますが、どこの誰だか特定されないという特性が非常にまずい無秩序状態を作り出してしまいます。
ですから、個人が誹謗中傷されたり、ブログが炎上したりなんてことがおきますよね。

これに関しては多くの人が問題意識を抱いており、解決しなければならないと考えてきました。
その解決法の一つとしてあげられるのが、コメントそれ自体に対する評価です。
たとえば、Yahooニュースに対するコメントを見ていると、その横に「私はそう思う」、「私はそう思わない」ボタンがありますよね。あのボタンを押すことでコメントに対してユーザーが評価できるということになるわけです。
そしてここからが重要でして、前述のようなネットの無秩序状態を解決するために考えられた方法の一つとして、コメントへの評価がある一定の基準を下回ったらそのコメントを表示しないという仕組みがあるのです。

Youtubeの動画へのコメントはまさにこの方法を採用しています。
上に貼りました「償い -Youtube」のリンクを辿りますと分かりますが、コメントしたユーザーの名前は掲載されているのに、コメント内容が表示されないものが見られます。これがまさに評価が低かったために抹消されてしまったコメントなのです。
こういうのを見ますと、ああ、機能してないなあ、とがっかりせざるをえないわけですよ。分かりますか?この言いようのない脱力感。
そんなして少数派意見を抹殺して一体どんな世の中にしたいんだと。誰からも批判を浴びない当たり障りのない意見ばかり集めてどうするんだと。自分と全く違った考え方を持っている人だってそりゃいますよ。そんな人がどんなふうに物事を捉えるんだろう?って考えなさいよ。
もう、自分ばっかですね。自分、自分、自分は正しい、自民族中心、ああやだやだ。
はっきり言いますけどね、そうやって自分に都合のいい意見ばかり集めて、自分中心で世の中を動かしていくのは私どもおともだち内閣だけで十分なんですよ!!!

さだまさしの償いはもちろん文句なしに名曲ですよ。
でも、そうじゃないっていう人もいるでしょう。それなんか完全に感性の問題じゃないですか。
根拠のない誹謗中傷は許せません。けれど、この詩が好きか嫌いかなんてそれぞれじゃないですか、いろんな意見あっていいじゃないですか。
むしろそういう多様な意見の交流あってこそこんな名曲生まれるわけじゃないですか。
世の中はね、反対意見があってこそ自分の思想になおさら自信が持てるってことはあるんですよ。そういうのを抹殺していてはだめです。

ですから、嫌いなコメントも一応見ましょう、みなさん。ていうか見なさい。
Youtubeの場合は、テキスト コメントの隣にオプションというボタンがあります。そこをクリックすると、表示するコメントのタイプを変更できますのですべてのコメントを表示させる設定にしてください。こうすることでどんなコメントも読むことができます。

Architecture in Helsinki 大ブレイクの予感

2009 年 6 月 1 日 月曜日

文部科学大臣

いやはや、これは連続の投稿、失礼いたしますな。
文部科学大臣の本田スパニエルでございます。

先日ですね、TSUTAYAに行って参りましたよ!TSUTAYAで参拝して参りました。
冗談です、CDをレンタルしてきたのでございます。それもなんと8枚も。
政権とってからというものですね、こういった荒業が可能になりましたですよね。

なぜわたくしがTSUTAYAにおもむいたか。それには目的があったのでございます。いつまでもチャイコフスキーを聞いているというわけにもいきませんので、ここにきて守備範囲を広げてやろうってことなんですよ。
んで、率直に申し上げますと、今回のTSUTAYA訪問はずばり「Architecture in Helsinki」を手にして帰日しようという趣旨でございました。

Architecture in Helsinki -Myspace
Architecture in Helsinki -Facebook
Architecture in Helsinki —That Beep

んで、率直に申し上げますと、Architecture in Helsinkiは店頭に並んでおりませんでした。1時間半くらい探し回りましたけど、見つかりませんでした。
「このうんこ野郎が」と捨てゼリフを吐いて、他のくそアーティストども8名の作品を手に帰ってきちゃったわけですけども、このArchitecture in Helsinkiとかいうやつら、売れますよ。オゾンの再来ばりにうけますよ。マツケンサンバの再来ばりにくるでしょうね。

彼らは、フィンランドかと思いきや、どうやらオーストラリア出身のバンドらしいですね。オーストラリア出身であるにもかかわらず、Architecture in Helsinki(ヘルシンキの建築構造?)とかいう意味不明なバンド名をつけるあたりが、彼らのパーソナリティを存分に物語っています。
たとえば、とあるインタビューでツアーへの意気込みを聞かれて、メンバーの一人Birdさんはこんなことを言っています。

>>I think so, we’ve pretty much been on tour since April so I mean it’s all kind of blending in to one epic adventure.

苦しゅうない、苦しゅうないわね。こういうバンド好きですわー。
わたくし、チャイコフスキーとか、Beatlesが好きなのも似た理由からでして、共通項があると思うんですよ。
ジョンレノンの「Being for the benefit of Mr.Kite」とか「I am the Walrus」とかが一番好きなのも、わたくしの中では同じ理由なんです。

曲調は、たてノリ系ではなくて横ノリ系です。ブンブンポン的なノリで、前奏でブンブンなりだして、ずしゃずしゃやって首を水平移動させます。そしたら、ボーカルが入ってくるので(誰のボーカルかはそのときどきによって違うので要注意)、肩から腰にかけてテトリスするイメージで、そう!テトリスするかんじ!それで、どすどすさせていきます。
けど、結局盛り上がることもなく平々坦々と時は過ぎ去り、なんとも発散し損ねたエネルギーを持て余したまま曲が終わるというかんじです。
伝わりましたかね?当分はテトリスするイメージだと思っていただいて差し支えございません。

まあ、とりあえず見ましょう。彼らは曲やらPVを公式にネット上で公開しているようです。
こちらは話題沸騰中のThat Beep。

今年の紅白確実ですね、こりゃ。
ちなみに、この曲メインで歌われていますかわいらしい女性のメンバーですが、名前はKellie Sutherlandといいます。
林真須美ではありませんのでご注意を。

2次元画像に萌える男たちの超現実主義者説

2009 年 5 月 29 日 金曜日

文部科学大臣

久しぶりでございます。文部科学大臣の本田スパニエルでございます。

少し前の話になりますが、2次元キャラクターとの結婚を認めてほしいと政府に訴える署名運動が行われておりましたね。
本気の人もいれば、冗談半分な人も、そしてその運動に冷ややかな目を向ける人たちも、いろんな方がおられたことでしょう。

今回わたくしが言論させていただきますのは、その中でも、かのようなネットの住人に対して「現実逃避」だと言って蔑むような態度を見せる方々に対してひとこと申したいと思っておるわけでございます。
わたくしはおそらく日本で初めての、「2次元画像に萌える男たちの超現実主義者説」の提唱者です。

その自論の根拠は、すこし時を遡ります。
まず西洋絵画の歴史を辿ってみますと、やはり極めて厳密な遠近法を用いた構成に気が付きます。
古来から合理的な思考を得意とする西洋文化にしては、やはりと言うかさすがと言うか、かっちりとした絵を描くわけでございます。

ところがどっこい、いつまでもその数学的な理論的な絵画を描き続けるものと思いきや、日本の絵画構成に影響を受けるなどして、美術の歴史は変動を見せ始めるのでございます。
時期的には、印象派、ポスト印象派あたりのところでしょうか。
セザンヌ、ゴッホなどの奇才が登場するのを皮切りに、それまでのかっちり遠近図法主義に疑問が投げかけられるようになるのです。

つまり、机を描きたいとするとき、数学的な遠近法によって線を引き、図を構成していくことは”現物”を描いたと言えるのか、ということです。なぜなら、我々が机を見るとき、たとえば机の右端を見るときと、左端を見るときでは若干視点が変わってしまうので、構図にずれが生じてしまうはずだからです。
実はセザンヌの作品には、このような微妙なズレが再現されている個所が見られるそうです。

これはのちのキュビズムだとか、シュルレアリスムに影響を与えます。
結局、3次元の世界を2次元平面に正確に描きこもうとすることに無理があるということです。我々の見ている世界はそんな世界ではありません。目だって2つあるんです。右目と左目で別々に見た映像を脳みそでうまい具合にブレンドした映像、クオリアを見ているわけなのです。
この事実を受け止めた上で、絵画を平面的なものとして描くという一連の活動には興味深いものがあります。ピカソを代表格とするキュビズムは、様々な視点から見た図を一平面に凝縮する。
これは我々の見ている世界の真髄を捉えかけています。

シュルレアリスムになると、さらに「現実とは何か」という問題に踏み込んでいきます。
シュルレアリスム御一行になると、無意識の世界こそが現実であると主張しやがります。つまり夢で見る映像のような、意識的でない、主観を排除したものこそが最高の現実なのではないかと。つまり、脳みその中で勝手にかちゃかちゃやってることがこの世の本質なのだと。
そういうわけで、偶然性を重視した、たとえば無意識の落書きのような、そんな夢心地の作品を創り始めるわけです。

ここまで言えば、もうわたくしが何を言いたいかお分かりのことでしょう。
2次元画像に恋をしてしまう男たちは何かと冷ややかな視線を浴びせられがちですが、あえて彼らを擁護するならば、「じゃあ3次元は現実なのかよ?」ということです。
我々は結局3次元の世界を2次元に落としこんだ世界を見ているんです。それならば、2次元こそが現実に近いのではないでしょうか?
2次元変換された3次元の女性なんてまやかしなのではないでしょうか?

それにこういった解釈も可能です。
そもそも自分の容姿や言動に自信を持てない者たちが、生身の人間に憧れるということ自体が現実逃避ではないでしょうか?
自分の立ち位置を受け入れた上で、「2次元しかない。」という選択をされた方々はある意味で現実主義者であるのかもしれません。

現実とは何かと考え始めるとさらに不気味な様相を呈してきます。
そもそも「生身の男性は生身の女性に恋をする」という現象が、実は帰納的な推論に過ぎず、一種の強迫観念としてこの世に存在するものだとしたらどうでしょうか?
だとしたら、むしろ彼ら2次元愛好家の掘り起こした無意識の現実(2次元に恋をするということ)は、功績とも言えるべきものではないでしょうか?
インターネットは無記名書き込みができるという点から見ても、本能的なメディアだとも言われます。インターネット発の2次元萌え集団はある意味で本能的、本質的だとも言えるのだと思います。

もう一度言います。2次元に萌える男たちに「現実逃避」だと言って冷たい視線を向ける方々に、それじゃああなたの考える現実って何ですか?と問いかけたい。現実とは何かをまともに議論しないで、やれ逃避だ、防衛機制だ、ニートだなどと言うものじゃありません。よっぽど彼らのほうが現実を捉えています。

なに?現実とは何か考え始めることにまさる現実逃避はない?
黙りなさい。そこのあなた。

アステカ菓子贈りの日

2009 年 2 月 14 日 土曜日

文部科学大臣

やー、どうもはじめまして。文部科学大臣のホンダスパニエルです。そうです、閣僚です。

こないだですね、ヤフーニュースを見てましたらね、いささか驚きの記事を発見したのでございます。

鳥取の小学校は「学級委員長」なし 「なれない子供が傷つくから」?

こんなにもですね、人生おともだち感覚なですね、他人との軋轢を避ける方策が現実世界にあったとはですね、衝撃です。きっと人権団体のおともだちを思いやるというスピリッツがかたちになったんでしょうね~。友情ですね~。
たしかに子供のころに学級委員長になれなかった子供って劣等感をもってしまって、それが原因で中東戦争勃発なんてことになりかねないから、実にすばらしい方針だと言えるでしょうね。

ま、そんなこんなで、今日は「アステカ菓子贈りの日」です。
アステカ菓子?
そう、アステカ菓子とは世界で最も愛されているお菓子とも言える、あの黒くて甘い、例のあれです。私が命名したんです。
なぜ率直ににバ○ン○イ○○ーと言わないのか?
いや、そんなもの2月14日なんかなおさら禁句ですよ。刺激が強すぎます。先の鳥取の人権団体からしたら、バ○ン○イ○○ーはともかく、チョ○○ー○でさえも放送禁止用語にくいこむでしょうね。
そんなことでして、私が訳語「アステカ菓子」というのを考えだしたのでございます。

だってそうでしょう。アステカ菓子をもらえなかった子供、いや、子供に限らずですよ、男たちはそれはもう傷つくなんてレベルではないでしょうよ。
アステカ菓子贈りの日によってトラウマを負った男性が、かのような単語を耳にしたとたんフラッシュバックが起きて錯乱状態に陥り、むやみにカンしまくってドラがべらぼうに増えるなんてことを考えたら、放送禁止用語にして、被害を最小にくいとめるなんてことは我々政府からしましたら当然のことでして、急務かと思われるのであります。

そんなことを考えていましたところ、wikipediaで以下のような興味深い記事を発見いたしました。

勧善懲悪委員会

みなさまはサウジアラビアという国をご存知ですかね。
勧善懲悪委員会というのはサウジアラビアに実在する機関のようです。いかにもなネーミングが素敵ですね。
サウジアラビアでは、この勧善懲悪委員会によってアステカ菓子贈りの日は禁止されているそうです。勧善懲悪の名のもとにアステカ菓子贈りの日なんてものにうかれた者は罰せられるのです。

「おまえらアステカ菓子もらえんやった人の気持ち考えたことあるんか!」ってことなんでしょうか・・・。だとしたら友情ですね~。

この勧善懲悪委員会の設置に関しまして、我がおともだち内閣でも協議していきたい事項でございます。