2010 年 1 月 26 日

みなさま、はじめまして。文化庁長官の神木白夫(かみきはくお)です。
私はおともだち内閣のどんくさい政治家どもとは違って、権威ある国家公務員試験を受けまして極めて公正な階段を駆け上がって参りましたエリートですので幾分崇高な議論ができるものかと思っております。
さて、博物館の教育的側面とは何でしょうか。
これが分からないと言って、真剣に悩んでおられる方ばかりだと存じますので、今日はわたくしが到達した考えを述べさせていただきます。
ただしはじめに言っておきますが、私は何も全く新しい考えを提示するわけではありません。既に言われ続けていることが互いにどのように関連し合っているかを発見したにすぎません。
博物館の四大機能というものがございます。
資料収集、資料保管、調査研究、教育普及の4つです。
博物館学というのは、その性質として考古学のような既存の学問と似ているところがありますが、決定的にその他の学問と異なるところは教育的側面を持つということです。この教育機能とは一般的に博物館における「展示」活動と一対一対応しているものと考えられるかと思います。
ですが、私のような浮世離れした人間からすると、なぜ博物館において教育的機能というものが存在するのか分かりません。
というのも、私たちは義務教育によってきちんと勉強させられているのに、わざわざ博物館に教育的機能を持たせて、しかも国費を使ってどでかい展示会場を建設したりしています。一体これにはどういう意図があるのでしょうか。
また、浅学者にとっては博物館を訪れても今一つ学んだ気持ちになることもありません。事実、博物館の展示方法で主流になりつつあるのは、展示解説文は極力短くして、学芸員側による一方的な説明的要素を排除しようという動きがあるのだといいます。
それならばなおさら博物館の教育的側面とは何だろうか、という疑問がわいてくるのです。
私はこのように考えました。
教育的機能を本当に満たしたいのならば、資料を全て画像や音声、動画などのデジタルデータにおこして、文献や学術的見解などもひっくるめてウェブ上にアップロードすればいいではないか。そして検索機能、情報整理機能などをつけれたら、学習において最も重要な資料の共有が可能になる。これをもって教育的機能と言えばそれで済む。それに伴って毎年多くの博物館で赤字をぶっこいている展示を縮小できれば一番いいではないか。。。
しかしどうやら博物館の教育的機能は、そういうものではないようです。
それはつまり、博物館の教育において最も重要なものが「現物」だからです。
現物があくまでも大事なのです。これが美術館とは決定的に異なる部分だと私は思っています。
なぜレプリカではだめなのか。
レプリカがあってはいけないということではないと思います。ですが、レプリカの場合は、レプリカそれ自体よりもどのようにして現物が複製されたのかということの方が重要な意味があります。つまりここでも、現物の重要性が見え隠れしているのです。
なぜレプリカ<現物なのか。
これは私の考えですが、博物館の教育とはつまり歴史を学ぶということに尽きるからです。
歴史と言うと我々は、既にストーリーが存在してそれを時間軸に沿って勉強するもののように感じるかもしれません。
しかし、歴史の本質は”人間が生きた”歴史なのです。過去、とある哲学者や文学者、科学者が何かを考え、記録し、または創作しなかったらこの世界の歴史は相当に貧弱なものとなっていたでしょう。しかし実際は生きて、もがいて、ひっかき傷を残していったものが大勢いたのです。そして、その遺産に共鳴を受け、それを保存し、整理し、普及させようと努力した者もいるのです。
これをひっくるめて、私は”人間が生きた”歴史とよびました。
要するに博物館は歴史そのものを直接扱う機関なのです。歴史の傍観者ではなく、歴史の中の一員として。
だから現物が大事なのです。
歴史という学問が研究対象とするのは、現物以外にありえません。私たちに歴史を教えてくれるのは、レプリカではなく、結局のところ現物でしかないわけです。
ですから私がさっき述べたように、資料をアーカイブしてウェブにのっけるという教育の方法は、単なる傍観者が見る歴史でしかありません。そうではなくて、来館者も歴史の体感者になってもらうことが博物館の役割なのだと私は考えています。
もしかしたら、博物館の現場の人たちはそんなことよりも動員数を増やす方が大事だと考えておられるかもしれません。現実的な問題としてそういう切実なこともありますのでなかなか難しいとは思いますが、それでも歴史の体験感覚を追求することなく、大衆迎合的なコンテンツを充実させているばかりでは、こんな時代です、博物館が必要なら民間にやらせればいいと私は思います。
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2010 年 1 月 3 日

新年あけましておめでとうございます。
新年明けて早々、暗黒ブログおともだち内閣へようこそ。総務大臣の歌川つめたろうです。
お正月と言えば、年賀状ですよね。最近正月には年賀状を出すという文化がだんだんなくなっているのだそうです。
メールにとってかわったりとかしてね。
聞いたところによると、最近は企業がもう、年賀状を社内の人間にかくってゆうのを禁止してたりもするのだとか。
気持ちはすごく分かります。めんどくさくてしようがないですね、年賀状ってのは。知り合いとか多い人なんかは地獄かもしれませんよね。
私は、年賀状をメールで済ませるとか、そもそも禁止にするとか、そういう風潮に理解があるつもりでいます。
けれどもけれども、一言言っておかねばならんだろうということがあるので、お時間の方よろしければ最後までご覧になってください。
まずは年賀状メールについて。
私は基本的に年賀状を紙かデジタルデータかで優劣つける意味はあまりないと思っているんですけど、メーリングリストとかで一斉送信されるメールがありますよね。あれのうれしくなさが半端じゃないんですよねぇ。うれしくなさすぎるんです・・・。し~ん。
紙でもらった年賀状は超適当なものでもうれしいんですよ。なんで一斉送信メールだとだめかっていうと、相手の頭の中に自分がいることを想像できないからです。リストの中にいる全員にあてた内容であれば、その人ならではの感謝の気持ちとか表せるはずもないですよね。
ですから、満足してるのかしてないのか知らないけれどもこういうことで済ませてる人に私が代表して言いますね。
一斉送信で年賀状メール送っても、うれしくないですよ。何のための年賀状かもう一度考えましょうね。
次は、企業が年賀状を禁止するっていう風潮に関してです。
本当に気持ちは分かります。忙しいですからね。せっかくの休みがなくなるかもしれません。
むしろ、社内の人間に年賀状をくそまじめに出したりする人はやるべきことが分かってない人なのかもしれません。
そういう大変さはわかるから、私が言いたいのは「年賀状を出せ」ということではありません。
年賀状出すのが大変だという人が自らの態度を肯定できるような仕組みを作ってしまうことが問題です。
意味分かりませんね。
「わずらわしいから年賀状出さない」という人は、年賀状を出さなかった、返さなかった罪悪感を抱かなくてもいいという仕組みが問題なのです。
お世話になった人に年賀状を出さないということは、ある意味失礼なことでしょう。その無礼さを開き直れるような口実を作ってるわけですね、企業が禁止するということは。それがだめだって言ってるんです。
意味ない文化を消してしまえば、企業としては生産性が上がるでしょう。
でも、なんか・・・、なんかつまんないですね。
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2009 年 12 月 13 日

すごい本を読んだので取り急ぎ書評を。
おともだち内閣文部科学大臣の本田スパニエルです。
読書の秋ですね。というわけで、私は最近小飼弾が選ぶ最強の100冊+1を読んでゆくというキャンペーンをやっているわけですが、すごいのがあったので報告です。
アフターマン。人類が滅亡したあとの地球で、生物界がどう変化するかということを描いたフィクションとノンフィクションの狭間を駆け巡る科学本です。
これが・・・、おもしろいんだ。
子供に読ませたい本暫定ナンバーワン。や、むしろ幼少期の「私」に読ませてやりたい。
著者(ドゥーガル・ディクソン氏)は、人類滅亡から5000万年後の学者かなにか(宇宙人?)の視点になりきっています。さも、長い間地球を観察していたかのように、冷静な文体で、それっぽく書いているのです。
進化ってのは、結局のところ遺伝子の突然変異が原因で起こると言われています。突然変異は完全なランダムです。
だとすれば、ある一定の確率で変化した突然変異種が無数に生まれることになります。けれど自然界は弱肉強食ですので、他の種よりも有利な形質を獲得した突然変異種が生き残っていくわけです。
こうして生物はその環境に適応した最適解を見つけるために、試行錯誤してゆくのです。
たとえば、寒冷地に住む動物は体が大きいものが多く、逆に砂漠などの高温の地では小さいものが多いらしい。
これは、寒冷地ではできるだけ体温を逃がさないような仕組みが要求されますので、体積に対する表面積の割合が少なくなければいけないためです。
このようにして、似た環境に住む動物たちに一定の法則を見出すことができます。
ですが、私が思うのは、その環境に対する普遍的な最適解というものは存在しないだろうということです。
現存する生物たちは、既に絶滅してしまった種よりも、現在のその環境への適応力が高かったということは間違いないでしょう。けれど、それらの種はベターであったけれども、ベストではない。ベストな形質なんてものはもともとあるはずもないのです。
たとえば、さっきの例で言うと、体の大きい動物が寒冷地でベストな形質ではありません。体が大きいという物理的な制約が逆に弱点になっていることもあります。そのため、ある突然変異種が体が小さくても体温を維持できる仕組みを手に入れた場合、その環境では彼らがベターになるのです。
こうして生まれた新種もまた、ベストではありません。
あくまで、「その瞬間」、「その環境」への適応力が比較的高いとしか言えません。なぜなら、環境というのは常に変化するからです。
この本では、5000万年後の地球の大陸図も、プレートテクトニクスから予想しているのですが、地形的な構造だけが問題になるわけでもありません。本書でもおもしろい例が紹介されていました。
熱帯ジャングル環境の話ですが、ネコ科の動物がですね、手を180°自由にまわせるようになって、しかも物をつかめるようになると言うんですね。
こういったことが、革命なんです。
ジャングルでは本来、木の上はサルの独壇場でした。サルよりも樹上で自由に動ける敵はいないのです。
ですが、肉食のネコが物をつかめるとなると当然狙いは木の上ということになりえます。そうすればサルたちの夜もねられない生活が始まります。このネコからの攻撃をうまく回避できなかったサルたちは今までの棲み家を追われることになります。
著者はこうして一気に進化が起こると言います。
要するに、生物圏はいっろんな要素が複雑怪奇にからみ合って成り立っているのです。ですから、ほんのちょっとの変化が大きな変革を後にもたらす、バタフライ効果のようなものが実際にあるんですね。
ですから、著者が予想した未来は外れているでしょう。そもそも、人間が滅亡するという前提ですし。
著者は、そんなことは百も承知だと思います。また、この本のおもしろさはそういう所にあるのでもない。
本書を読めば分かりますが、吹き出しそうな動物が次から次と出てきます。パラシュリュウなんかは典型です。
けれども私は、ディクソン氏の頭にはもっともっと奇抜な発想があったのだろうと思います。だけど、「これじゃあ生存競争に負けるようなぁ」と冷静に考えて、しぶしぶとりやめた、そんな姿が想像されるのです。
本書には、人類がなぜ滅亡したか、人類滅亡をどう阻止できるか、みたいなことには一切言及されていません。進化のメカニズムに関する説明は少しされていますが、それでも一般の書に比べれば不完全なものです。
アフターマンを一言で要約するなら、「科学的見解に基づいたディクソンの惜しげもない空想の産物」です。
私は天才に生まれたかった。
天賦の才を持って、思い描く理想像が明確にあるのです。
それは決して世の中をよくするとか、豊かにするとかいうことではない。
究極に無意味なことを、あらゆる学問を総動員させて、それっぽく開発、分析したい。天才的リソースの全てを無意味なことに費やしたい。
つまり私は「アフターマン」を生み出すような男に生まれたかったのです。
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2009 年 12 月 11 日

どうもこんにちは。食物担当大臣の唐獅子マスヨです。
ただいま食べ物担当庁が総力を結集する「寿司論」講座を複数回に渡って展開中でございます。
寿司論其の一 序論「抽象度と汎用性」
寿司論其の二 序論「抽象度と汎用性2」
本日もまた前回の引き続き、食べ物の好き度を客観的にはじきだすためのアルゴリズム研究です。
今回は、「稀少性」と自我同一性がテーマとなります。
前回までのおさらいをさらっとやっておくと、食べ物の好き度は抽象度と汎用性に対して以下のような性質を持つということを述べました。

もしこれらの食べ物の主観的おいしさが同値であった場合、この図を見ると、具体的かつ汎用的なホットケーキミックスが一番好きなのだろうという推論がなりたちます。
この図から分かることは、「炭火焼肉が好き」と単に言っても、大したアピールにならないということです。なぜなら、炭火焼肉が現れる料理は炭火焼肉か、もしくは炭火焼肉コースくらいしかありえません(汎用性が低い)。一方ホットケーキミックスを使った食べ物はいろいろありますので、それだけ多くの食べ物が守備範囲内にあるということですから。
この点に着目して、議論は次の段階に進みます。
「柿ピー」と「ウェイパー(調味料)」の例で考えてみましょう。この2商品を汎用性で比較すると、柿ピーは柿ピーでしかありませんね。汎用性は著しく低いと言えるでしょう。対してウェイパーは何にでも使えておいしい調味料ですので、汎用性はトップクラスと言えるかもしれません。
勘の鋭い読者は察したかも分かりませんが、汎用性とはそもそもその食べ物が他の食べ物の中にどのくらいの割合で使われるか、その出現確率を示すものでした。ですが、私たちの普段の生活の中でそれぞれの食べ物に同じ確率で出会うわけではありません。
被験者が食べ物に出会う確率、つまり希少性を考えることが必要だということです。
ウェイパーはたしかに多くの料理から被リンクを受け取ることができるでしょう。しかし、ウェイパーはただでさえ高価ですし、私たちがウェイパーを使った料理を食べることは少ないのです。その点、柿ピーはもはや国民的おやつ、つまみの一つであり、私たちの口に、目にふれる確率は格段に高いのです。

ですから、あくまでヒト目線で見るとするなら、ウェイパーや牡蠣は幅広くあみをはっているにも関わらず、それ自体の希少性が相対的に高いため現実に生活していてもあみにかからないのです。
これらの思考実験」から分かることは、希少性が高ければ高いほど、あみにひっかかる確率が格段に落ちるため、好き度は下がるということです。
どうしても現代のこどもたちは、キャビアやフォアグラの方が好き度が高いと思いがちです。
しかし、真実はそうではない。滅多に食べられないものをおいしいと感じるのはあたりまえなのです。そうではなくて、いつでも食べられるような、たとえば食パンにバターと砂糖を塗って、二年以上もおいしいおいしいと言って食べ続けた私の方が好き度が高いと言えるのです。
人間は飽きる生き物だということを肝に命じておく必要があります。最後まで飽きなかった食べ物が、あなたの好きな食べ物なのです!
これがフンボルト元事務総長が提唱した「希少性の相反原理」です。
さて、希少性を言及したならば、それは市場価値をぬきにして語れるものではないということが真っ先に分かることでしょう。実はこの市場価値なるものが、さらに次の段階、「自我同一性」に関する議論を巻き起こします。
詳しくはまた次回。
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2009 年 12 月 6 日

はいどうもこんにちは。おともだち内閣食物担当大臣の唐獅子マスヨでございます。
寿司論其の一 序論「抽象度と汎用性」
や、前回から寿司論をひけらかしておるのですけど、今回もその続きです。まだ序論ですよ。
前回の宿題は覚えていますか?
その食べ物の汎用性が高ければ、好き度は高いのか低いのか。という問題でしたね。これは専門家の間でも議論が分かれると言いました。
ハムカツサンド大学のロールケーキ研究家、イッテルビウム博士は汎用性が高ければ、好き度は低くなると言いました。

イッテルビウム博士
食べ物の汎用性と抽象度というのは、性質が似通っています。私が担当しているクラスでは、多くの学生がこの違いを明確に区別できていません。これはたしかに混乱を与えかねないクラスタリングなのです。
どういうことかと言うと、「ファミレスのエビグラタン」→「グラタン」→「ホワイトソース」→「ミルク」のように汎用性が高くなると、同時に抽象的になるという現象が確かに起こるのです。
ですから、このような間違いを犯さないよう、次のように覚えておいてください。
抽象度は、その食べ物を一意に識別できるかどうかをあらわす指標
汎用性は、その食べ物がいかに汎用的に用いられるかをあらわす指標
こう考えれば、たとえばビタミンCの例もよく分かります。一見ビタミンCは抽象的だと言う人がいるかもしれませんが、確実に一つの意味を紡ぐことができるので、これは具体性が著しく高いということが分かると思います。
さて、私があえてこの間違い例を引き合いに出したのは、ここに重要なヒントが隠されているからです。
食べ物の汎用性と好き度は比例するか、という論争は長い間行われてきましたが、その答えの鍵がここにあります。
結論から言うと汎用性が高ければ好き度は低く、汎用性が低ければ好き度は高くなります。
抽象度が高ければ好き度は低いという結論は既に出ました。
そしてさらに、汎用性が高ければ抽象度が高くなるという現象が起こることをさっき紹介しました。
つまり、抽象度と汎用性は、好き度に対する性質が似ているのです。
つまり、汎用性が高ければ好き度は低くなるのです。
引用:「ロールケーキの渦に呑まれた天才科学者たち」(ヨハン・イッテルビウム著 / ケンタウロス出版)
イッテルビウム博士はこのように述べておられます。
しかし、賢明な読者のみなさんの中には気付いた方もおられるかもしれません、彼の主張には穴がぽっかりとあいています。
そう、彼は自ら、ビタミンCの例をあげて言っているではありませんか!抽象度と汎用性は、私たちの直感と異なる場合があるということを!ビタミンCは、汎用性はmaximumですが抽象度はminimumなのです。
ですので汎用性と抽象度の好き度に対する性質が同じという考え方は非常に危険です。
私の考えでは、汎用性が高ければ、好き度も高くなります。
たとえば、好きな食べ物「アミノ酸」と言ったやつがいるとします。アミノ酸は汎用性は高く(アミノ酸を含む食べ物は無数にある)、抽象度は低い(ただ一つに識別される)です。(汎用的かつ具体的)
これと比較して、好きな食べ物「ハーゲンダッツのラムレーズン」があるとします。ハーゲンダッツのラムレーズンは汎用性が低く(ほかの食べ物には決して現れない)、抽象度も低い(ただ一つに識別される)です。(限定的かつ具体的)
この2つはどちらも抽象度が低いですので、好き度について汎用性を中心に比較することができます。
私の直感では、ハーゲンダッツが総力をあげて、高級な食材をとりよせてつくっているのだから、「ハーゲンダッツのラムレーズン」がうまいのはあたりまえだ、と思います。対して、アミノ酸みたいな自然でどこにでもあるものに「おいしさ」を感じるということはよっぽど好きなのだろうと思えるのです。
この私の直感は、本質をついていました。
これはGoogleの創業者、ブリンとペイジが開発したページランクの考え方で説明することができます。

まずこれは前回のおさらいですが、抽象度が高いと好き度が低いということの根拠を示しています。好きな食べ物が「全食べ物」では、好きも嫌いもありませんよね。こういう場合を考えて、抽象度が高いものは正規化する必要があります。その食べ物が内包する食べ物の母体数で主観的おいしさを除算する必要があるのです。
ですから、抽象度の高さは、好き度を下げるという役割しか果たしません。

それでは汎用性が高いパターンを考えてみましょう。茄子の場合は、汎用的になるので、焼きナス・なす漬などの茄子を親にして生まれる子どもたちからの被リンクを受け取ることができます。茄子が好き、と言ってしまえば茄子を含む全ての食べ物からのサポートを受け取ることができる仕組みになっているのです。
ですから、汎用性が高ければ好き度も上がるのです。
これで十分すぎるほど、イッテルビウム派のあほぶりが分かったと思います。
彼の著作は信頼にあたりませんので、今すぐ焼却処分するのがよいでしょう。BOOK・OFFに売ったりしてはいけませんよ。
それを買った誰かがまた間違った知識を植えつけられることになりますからね。
それでは今回はこのへんで。次回も序論が続きます。「希少性と自我同一性」についてです。お楽しみに。
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2009 年 12 月 1 日

はいこんにちは。おともだち内閣食物担当大臣の唐獅子マスヨでございます。
今日は、ワタクシ唐獅子マスヨの根幹を担う思想「寿司論」を展開いたします。ついに・・・、このときがきた!
ちなみに言っておくと、ワタクシもちろん寿司を握ったことはないですし、高級料亭でいただいたこともないですし、庶民にも手が届くスーパーに売っているお寿司で大概満足できる人間です。ですが、ワタクシなりに寿司にかける情熱というものは人一倍強いものをもっております。
さて、ここ数年、いや数十年好きな食べ物ランキングダントツ1位をひた走っている寿司、でございますが、そもそも好きな食べ物とはどのようにして決まるのでしょうか。実は私ども食物庁が好きな食べ物ランキング算出アルゴリズムの研究をしています。素人が何も考えずに好きな食べ物に優劣をつけようとすると、不公平さを内包してしまう危険性があるのです。
まずは下図をご覧ください。
- 寿司
- 天ぷら
- うな重
- カレー
- キャラメルコーン
- おせち
- 牡蠣フライ
- サンドイッチ
唐獅子マスヨ好きな食べ物ランキング:2009/12/02現在
不公平さとは、何が言いたいのかと言うと、食べ物の好き具合を「おせち」と「キャラメルコーン」で比較するのはおかしいということです。これは、「野菜」と「コーンポタージュ」を比較しているようなものです。もっと言えば、「和食」と「ナポリタン」が同じ土俵でたたかっているのです。
これに関して言えば、ワタクシ小さいころ「青じその天ぷら」が好きな食べ物ランキング最上位だったころがありました。これを例にとって、歴史をまたいで暫定1位の「寿司」と比べてみると、もし仮に当時の「青じその天ぷら」の好き度と現在の「寿司」の好き度が拮抗するのであれば、「青じその天ぷら」の方がポイントが高いはずだと言うことができます。
なぜなら、ふつうの青じそはそこまで好きではないのに天ぷらにした途端食べ物界の頂点に君臨する、または、えびやその他の天ぷらにはそこまで興味を示さないのに青じそに関しては別格のうまさがある、といったところにヒトの好みへの秘密があると考えられるからです。青じそでかつ、天ぷらでなくてはいけないという確固たる主張。つまり、好きな食べ物を考えるときには、その食べ物の抽象度が問題となってくるのです。
昔ワタクシの友人に、「好きな食べ物・うまいもの」とプロフィールに書いているやつがおりました。こうなると元も子もないですね。「好きな食べ物・好きなもの」だってありえる。ですから、「うまいもの」と「メロンパンのかたい部分」というこたえ方では、後者の方がより熱意が大きいだろう、つまり具体的な方がより好きだろうという推論が成り立つわけです。言いかえれば、一義的に解釈できる名称の方が好き度が強いということです。
ですから、そう言った意味で寿司はあまりに抽象度が高すぎます。巻き寿司はどうなのか、ちらし寿司は、いなり寿司でもいいのか、という批判が当然噴出するでしょう。
ワタクシもこの問題に関しては十分認識していますし、常々これじゃあいけないなぁというふうに考えているのです。ですがそれでも、うんヶ月ぶりに寿司屋に足を運んだときの心の高揚、寿司と言う響きがワタクシのアニマに働きかける様子を感じていますと、ついつい好きな食べ物・寿司と抽象的にする誘惑に負けてしまうのであります。
寿司ネタにまで切り込んで、好きな食べ物ランキングを再構成することもできるのですが、そうするとベスト8なんて大半が寿司で埋め尽くされることになりかねません。こうなってしまうことがつまらないし、何もワタクシは寿司屋に行って、これが食べたいと明確にイメージしているわけではなく、寿司屋に行くこと自体が享楽になっているのです。
おっと、いくぶん言い訳的になってしまいました。
次に私たちが考えるべきことは、食材の数です。
たとえば、「茄子」と「海鮮ちゃんぽん」を比較してみましょう。これらはどちらともその名前を聞いて一意に食べ物をイメージすることができますので具体的だと言うことができます。
けれども、この2つの食べ物は性質が本質的に異なります。「茄子」は野菜そのものですが、「海鮮ちゃんぽん」だと、麺・スープのほか、キャベツ・あさり・えび・かまぼこ・ニンジンなどの様々な食材を必要とします。さらに、煮込む・炒める・ゆでるなどのコストがかかるのも特徴です。その点で、茄子の場合は非常にシンプルです。このようなケースで、茄子は海鮮ちゃんぽんよりもプリミティブであるとう言い方をします。
その食べ物がプリミティブであるためには、食材の数だけが問題になるわけではありません。たとえば、誰が作ったか、などの情報が加味されることがしばしばあります。
たとえば、「コーヒー」と「スタバのコーヒー」では、ふつうのコーヒーの方がプリミティブであると言えるのです。これは一見屁理屈な議論のように思えるかもしれませんが、どこで食べたか、誰と食べたか、いつ食べたか、などの情報は好きな食べ物をはかるうえで非常に重要な指標だと言えます。決してあなどってよいものではありません。
ですから、「おばあちゃんが作ったおしるこ」と「いちご大福」では単純比較ができないということになります。そこで優位差をつける仕組みが必要となります。
これはプリミティブ度ともよばれますが、一般的に汎用性という言い方をします。こちらの方が初心者にはわかりやすいのではないかと思います。汎用性、すなわち、いかにその食べ物を一般化できるかという指標です。
さて、ここで問題です。
汎用性が高ければ、その食べ物の好き度はより大きいと言えるか否か。
実は、この問題に関しては専門家の間でも議論が分かれるのです。
その答えについては次回をお楽しみに。
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2009 年 11 月 26 日

就活に不満、学生がデモ 札幌中心部で -北海道新聞
「就活くたばれデモ」なるものが取り沙汰されて、ネット上でああだこうだはじまっているのがおもしろくて便乗です。
厚生労働大臣の幕の内です。
やー、今回も就活の話題ですね。ま、私どもは政官業の最強サイクルによってゆるぎない政権運営を行っておりますので、就職活動なんてものには無縁なんですがね。
率直に私の見解を述べますと、本当に素晴らしい。感服。
いや、デモというのは本来政府の敵のはずなんですがね、実に愉快ですよ。今回大臣の椅子から高見見物に決め込ませていただきましたよ。
う~ん、やっぱりね、三島由紀夫が金閣でほのめかした「認識と行為」の概念が今になって私にはよく分かるのです。
はてなブックマーク
むしろ「就活くたばれ」と言ってこなかったからこそ今の惨状があるんじゃないの -日常ごっこ
くたばれ就活?では就活を屏風から出してください
「人のせい」はクセになる
自分にとって都合の悪い状況があるときに、
それを作り出している絶対的悪者がいると考えるのは短絡的。
バイキンマンを退治すれば世の中は平和になるという発想だ。
私はいろいろとこの周辺の議論について考えました。
特に私にとって難解な問題なのが、この方も言われているようなこと、つまり、「人のせいにしてはいけないのか」という問題です。
基本的には人のせいにすべきではありません。この方も述べておられるように、不幸を呪うよりかは感謝できる精神にあった方がよいのだと私ども思い出主義者も考えています。
ですが、私はそんなところに自分の限界を感じるのです。
今の自分が社会と適合できないのであれば、自分が変わろうとする努力をすればいい。それが一番波風立たないし、自分のためにもなるし、最も論理的な思考です。しかし、過去フランス市民が自らの不遇を絶対王政のせいにしなければフランス革命は起こらなかったのです。我々の想像力の及ばぬところに世界が開けている可能性はこの期に及んでもあると私は思います。
ものすごいスケールのでかい話になって「は?」となった人もいるかと思われますが、デモや運動などはさすがに譲れんだろうというポイントがあってやるのですから、仕方ないことなのです。そもそもデモとか運動とかゆうのは自分じゃなく、社会がかわってほしくてやるのですからね。
ですから、まとめると、「人のせいにするかしないか」を普遍的な価値として位置付けるのではなくて、「人のせいにした結果、またはしなかった結果、自分がどう変わったか」を見るべきだというのが思い出主義的見解です。
つまり、何もかもを人のせいにして、言い訳ばかりして過ごした結果、何も残らなかったというのはよろしくない。逆に、全てにおいて自分が変わろうと努めた結果、自分にとって大切な何かを失ってしまった気がする・・・というのもよろしくないのです。
比較すると、社会的には前者の方がよろしくないんですけどね。
この北大生たちの行動は勇気あるもので、まちがいなく彼らの思い出に残るでしょう。そして、こういうことをすればまわりからいろんな意見をもらったり、あるいはボコボコに叩かれたりもするでしょう。けれど、それも含めて素晴らしい思い出になりますよ。
ただしひとつ言っておきたいことは、「人のせいにして生きる」というのは本気でやり遂げようとするならばものすごくエネルギーがいることです。これを高精度で達成できる人は天才なのだろうと私には思えます。
さらに、私にはどうしても、人のせいにすべきでないよという主張で運動を批判する方々は社会の反分子を取り除こうとか、余計なこと考えずに社会の馬になれと言ってるように聞こえるのです。でも、人生・幸福というマクロな目で見ると、とりあえず社会をまわしていくことがそんなに重要なんだろうかと思えるのです。
ほんで、私が最後に一番強く言いたいのは、こうなってはいけない・・・!ということです。
「就活くたばれ」が気持ち悪い理由 -Life Like Light
理由1.甘えに見える
「ストレス発散のためにやっているんだ」というスタンスをとっている限り、実際にストレスに耐えて就活を経験して、職を得ている者からすれば、甘えに見える。…
理由3.デモって非効率じゃない?
別に、採用活動の対案を出せ、というわけじゃなくて(それでもいいけど)、ストレスを自分にどう生かすか、という工夫をしたほうが効率的だ、ということ。…
違うのです。私からすれば、ストレス発散のためにやってて何がだめなんだ?と思います。
むしろ、ストレスみたいなたまりにたまったエネルギーから生まれるものに私は期待しているのです。パンクロックなんてのがいい例じゃないですか。
たしかに、ギターとドラムつかって叫べば、大人たちは聞いてくれないかもしれない。でも、想像してみてくださいよ。若者さえもが冷静沈着に、理性的に、きっちりと主張をする光景を。そこに文化や芸術、そういうムーヴメントは起こらないでしょう。
デモって非効率じゃない?、という発想は頼むからやめてほしいのです。人生に効率をもとめるんなら、生きてなくてもいい、死んだ方が一番効率的なのです。思い出主義者にとってはプロセスこそが「生」。このプロセスを排除する「効率」というものは(仕事場ではもちろん大事でしょうが)、生きる上では障害になると言いたいのです。
(詳しくは、「人は死ぬから、心が豊か」を参照。)
私は、合理性にあまりに固執する人々を論理的思考症候群とよんでいます。
彼らに足りないのは、ずばり想像力です。論理的思考に想像力が欠けていると、そのこたえはものすごく単純なものしか出てこないのです。そんなこたえに私は興味がないのです。
想像のない論理が導く世の中は、おもしろくない、と私は言いきれるのです。
追記:
このデモの主催者O瀧さんのブログです。
「就活くたばれ」デモが無事終了。 -O瀧さんの暴動ステーション
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2009 年 11 月 4 日

おひさしぶりです。厚生労働大臣の幕の内でございます。
就職活動シーズンに突入している感がありますが、本日のテーマはあの憎きSPI、性格診断テストについてでございます。
結論を言います。WEBテストでその人の性格や適性を見て、選考の一つにするなんて考えは捨てるべきです!捨ててください!人事の方!お願いします!!
なぜかって、WEB適性テストは、そのやり方が主流になった今、目的が非常にあいまいになってしまっているからです。
SPIテストは、言語と非言語の基礎的な学力をはかるという目的のほか、性格を診断して向き不向きを数値化するという目的をもっています。これは導入直後は、あながち悪い方法とも言い切れなかったかもしれません。コスト削減にもなるし、応募者をうまい具合にふるいにかけることができたのでしょう。
しかし!現状は違います!たぶんとしか言えませんが、違います。
なぜなら、人間は学習するからです。
つまり、WEB適性テストで企業はこういう社風と関連付けて、こういう能力・性格を持った人材をとろうとする、ゆえに自分はこの問いに関してこうこたえるべき、というふうに素直にテストに取り組まず、打算的回答になるということです。
いや、学生が積極的に学習したわけではない。世にあるSPI本のほとんどが驚くべきことにこういったずるがしこいノウハウをすりこんでいるのです。
大人たちが大々的に適性テストの解き方なるものを公言して、出版している・・・。
この時点で明らかにWEB適性テストの本来の目的が失われています。
もう一度確認すると、適性テストの目的はその人の性格が社風と合致しているかをはかるものであったはずです。
しかし、就活生の多くが読むであろうSPI本にその攻略法を書かれては目的がすこぶる変わってしまうことがおわかりでしょうか。
志望する企業の社風を分析、それに合う人物像を頭の中につくり出し、その人物になりきって性格診断を受ける。
いかに高水準でこれを実行できるかをはかるテストとなってしまっているのです!
私はたしかに、就職活動において就活生は思いっきり悩むべきですし、苦労するべきですし、万全の準備をすべきだと思います。
だから、「企業に合う人物像で挑むテスト」と割り切ってやればいいと言う方もいるかもしれません。
だけど、そもそも目的があいまいなんですよ。「企業に合う人物像で挑んだ人」が受かる試験になれば、「素直に受けた人」は不利になります。
そうなると、就活生はやはり性格診断テスト対策をやらざるをえない。
もはや性格診断の体をなしていないアホらしいテストの対策をやらなきゃいかんことになる。
これは一種の価格競争ですよ。誰かがはじめたら追従せざるをえないという・・・。これは貴重な時間を単に奪っているだけですよ。
足切りをやるのならば、しかるべき目的で、しかるべき基準を設けてやるべきだ。
企業研究ができているか見たいならば、しかるべき質問で、しかるべき基準を設けて見るべきだ。
やっぱり私はコンピュータが人を判断するという仕組みが憎くてたまらない。
WEBテストを受けてみれば分かりますが、5段階評価では伝えきれない細かいニュアンスがいっぱいある。普通に生きてたら、そんな葛藤ばっかりです。
私が就活生だったら、そういうプロセスを「はい」か「いいえ」で答えさせらるなんて歯がゆくてしょうがない。7秒とかで答えさせられるのが歯がゆくて・・・。
そしてその対策として、優等生回答をたたき出すための勉強をせねばならないなんてことがくやしくてしょうがないですね。
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2009 年 10 月 21 日

どうも、内閣府特命担当大臣、食物担当大臣の唐獅子マスヨです。
今日は前回からの続き「視力0.1のすすめ 後編」でございます。
前回私は目が悪いということもいけないことばかりではないということを申し上げました。赤瀬川原平氏の「老人力」など紹介させていただきましたが、こういった心構えが私には非常に興味深く感じられます。
そして、視力が悪いということにおける最大のメリットは、覚醒しながらにして超現実を垣間見ることができることなんだということをほのめかし、前編を終了とさせていただきましたね。
本後編では、その超現実について言及して参ります。
視力がアラ0.1くらいのレベルに達しますと世の中には大抵フィルタがかかっていて、常にピンボケ祭りです。すると、遠くにあるものは一体なんなのか分かりません。
何やら何だか分からないものが見えると人間は、ピンボケしたごく少ない情報を頼りに自分の経験データベースに必死こいて検索をかけ、その物の正体を解明しようとします。
しかしですね、人間生まれたときはずっと目がいいですし、小さいころに目が悪くなったという人も大体めがねをかけますから、くっきりした世界を見ているんですよね。そういった環境で育っているから、視覚情報のデータが少なすぎるとデータベースから検索しきれないときがよくあるんですよ。
そうなるとどうなるか。
視覚心理学という研究分野はなかなかおもしろい研究を頻発していますけど、それらからも分かるように眼球というデバイスで処理しきれなかった部分は脳が大いに情報補完をするわけです。
盲点 -wikipedia
つぎはぎだらけの脳の心 -池田信夫blog
視覚情報を脳がカバーするという研究報告はこのほかにも枚挙にいとまがありません。
この現象が非常におもしろい。
経験データベースからあぶれた得体の知れない物体は、意味不明な物体としてそこにあり続けるわけではなく、何かしら脳によって補完、すなわち意味付けが行われるのです。
この脳のおせっかい機能がまれに極上の超現実を生み出します。
たとえば。
こないだ部屋でくつろいでいましたら、パッと見、カーテンのところに何やら黒い物体を見つけたのです。私はその瞬間どきっとしました。
なぜなら私は瞬時にその黒が何か分かったからです。
監視カメラだったのです。
自分の部屋になぜか監視カメラがとりつけられている・・・。一体誰が・・・。私こんな職業に就いておりますし、いろんな想像を巡らしました。
けれど近づいてみると、その黒がただのハンガーだったことに気付きました。
たとえば。
こないだ颯爽と自転車で街を走行しておりましてね、とある四つ角を左折した瞬間事件は起きました。
目の前のおばちゃんが、おばちゃんがですよ?私とそんなに歳もかわらないであろうおばちゃんが、天空に向かって銃をぶっ放しているのですよ。
腰抜かしますよね。誰だって。
でも、すぐに真相はわかったのです。おばちゃんはハンドバッグを頭の辺りにかざして日よけにしていたのです。
たとえば。
私はこれには本当にびっくりしたんですが、駅前の公園を歩いていてふと視線を感じたのでそちらの方に目をやると、チュウバッカがこちらを睨みつけていたのです・・・!

チューバッカ -wikipedia
あの一瞬私の脳に映ったのはまぎれもなくチューバッカでした。目が煌々としていて、「とられる・・・。」と思いましたね。
でも、本当はチューバッカなんていなくて、

こんなかんじのただのギャルだったんですよね。しかも全然こっち見てもいなくて。
これらの現象のおもしろいのは、極自然に日常を暮らしていて、極自然な秩序の中に暮らしていて、あるとき不意に訪れる不秩序と出会うということです。
シュルレアレスム派の絵画にはどうもそういった要素がないのです。彼らの作品にあるのは、ちぐはぐさの中のちぐはぐさ。
私たちが見る「夢」も終始ちぐはぐしていることが多いですが、まれにとてもリアルな夢を見ることがあります。リアルなんだけど、何かおかしいといったような。
これがおもしろい。
私は日常の中に突如現れる不可思議こそが超現実の真骨頂だと思うのです。
視力が悪い=不幸だと信じて疑わなかったあなたは、こんなエキサイティングな毎日をおくっているでしょうか。
たまには視力0.1も悪くないということがおわかりいただけたかと思います。
これを応用すれば、たとえ失明しても世の中は楽しくなりえます。まだ耳、口、肌という感覚器が残っていれば。
私たち美食家はそうならんがための修行を怠ってはならないのです。
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2009 年 10 月 20 日

食物担当大臣の唐獅子マスヨです。
本日は食べ物に直接関係のございませんトピックでございますが、本物の美食家が世界をどう視るかということを力説して参りたいと思います。
さて、本日申し上げたいことは、「視力0.1のすすめ」ということです。
我々は特に意識することなく、視力がいい方が「幸せ」だとおもっています。それだけではなく、五体満足の方が「幸せ」、耳は聴こえた方が「幸せ」、病気でない方が「幸せ」・・・という具合に。
まあ、そういう風潮があることは事実です。
こういった感情はいたしかたないものかもしれません。
けれど、デバイスとしての”私”が劣化することを受け入れた者というのは、ある意味で本物の美食家と通ずるところがあり、また、彼らは人生において勝者であると私は思うわけです。
赤瀬川原平さんは、類稀なる感性で実におもしろいご指摘をされています。
赤瀬川原平 -wikipedia
彼とその一味は、「老人力」という著作で、老人力という概念を提示しました。
…
友人とか仲間どうしの場合、共通の知識を共通に忘れかけていることがよくある。何かのたとえ話をしようとしていてある人物の名前が思い出せず、
「えーと、ほら、あの、あれに出てた・・・・・・」
「そうそう、あれでしょ。あの、ほら、あれ・・・・・・」
とお互いに忘れてしまっている。でもちゃんと「あれ」だというのはお互いにわかっているのだ。
…
あるとき、相手は南伸坊君だったが、やはりそんなことを何度も繰り返していて、南君の方がつい、
「おっしゃることはわかります」
と言ったので大笑いした。
…
こういうのをぼくらでは「老人力がついてきた」という。
引用:老人力(筑摩書房)
老人力・・・。
赤瀬川氏は、富を増やそうだとか、豊かさを得ようだとか、平和を目指そうだとか、そういうことに言及するタイプの論者ではありません。
でもなぜでしょう。私だけでしょうか。彼の言うことには溢れんばかりの光が差し込んでいるように思うんです。
彼のような人間を見習っていきたいですね。
さてと、私実は視力が悪うございまして、ほとんど見えてないのにめがねもコンタクトもかけないというありさまでございます。
でも、目がほとんど見えてない生活も捨てたもんじゃないよということを訴えてまいりますね。
まず、これは序の口ですが、通りすがる男どもが全て美男子に見えます。相当近づかないかぎり50代と20代の区別もつきません。さすがにはげちらかしているかどうかは分かりますけどね。
ここからが本番なんですが、私あるとき、スーパーでお買いものしておりましたらね、尋常じゃなく興味を注がれた商品を見つけたのでございます。
その商品名は、「しりとりクッキー」。
しりとりとはあの言葉尻をつかまえて、相手を批判しまくる王道ゲームのことかしら。あの国民的ゲームとクッキーをコラボさせるなんて一体どんなセンスをしていらっしゃるのかしら。
と、取り乱したのでございます。
そしたら、よく見ると、「しりとりクッキー」じゃのうて「しっとりクッキー」だったんですね。ただの「しっとりクッキー」だったんです。
けれども私はがっかりしませんよ。だって、私がお菓子会社の社員でしたら、即「しりとりクッキー」という商品名の企画書を書くはずですからね。
これは言わば、一瞬他人のアイデアかと思ったらそうではなかったっていう、この上ないラッキーなんですよ。しめたものなんでございます。
まあ世の中ぼかしを入れることで、見えてくる情報ってあるもんなんですよね。
私は、視力0.1の真骨頂はこれにとどまらないとふんでおります。
視力0.1はときたま私たちに超現実を見せてくれるのです・・・。
最近、閣僚のお話が長いと非難されますが、これまた次回に持ち越しです。ごきげんよう。
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